都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

ニューグリーンビル

2020-03-16 | 中野区  
ニューグリーンビル
所在地:中野区 中野2-23
構造・階数:RC・6F
建築年:1963(昭和38)
解体年:2019(令和元)
Photo 2018.6.7

 JR中野駅南口を出て、線路沿いに東へ行った場所にあったオフィスビル。

 中野駅南口周辺では超高層複合ビルを建てる市街地再開発事業が始められていて、東京都住宅供給公社住宅が解体されたが、隣接地にあったこのビルも昨年7〜8月頃に解体された。ただ、このビルの敷地は南口周辺の再開発とは別なようで、再開発地区の東側に新しく整備される区画道路の東側にあたる。

 コーナーが丸められていて、窓の上側には庇状の囲みがある。開口部をコンクリートで囲むのは、耐震性を持たせるためだというが、上側だけでもある程度効果はあるのだろうか? 一方、北側の小窓は規則性があるような無いような並び方。

 写真の部分は北側の道路に面した部分で、実際は南北にやや長いコの字型をしていたようだ。Google Mapを見るまで気がつかなかったので写真は撮っていなかった。

 北東角は階段室やエレベーター室だったらしい。ただ、その塔屋北側に張り付けられたこのカーブした壁はなんだったのだろう? ニューグリーンビルだから緑色だったのかもしれないが、何か理由があっての形なのか、単なるデザインだったのかは知らず。

 カーブした緑色の壁の左下には袖看板の跡があり、上の方にはビル名の文字が付いていたのではないかと思われる跡が見える。

 衝立のような壁は日射しによって陰ができ、建物に独特の表情を与えていた。

 玄関わきのモザイクタイル壁画。こういうものは最近は造られない。昭和30〜40年代の建物らしい雰囲気が出ていた。

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 中野区  #オフィス  #住宅系  #モダニズム 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虎ノ門のギャンブレル屋根住宅

2020-03-14 | 港区   
I邸
所在地:港区 虎ノ門3-19-3
構造・階数:木・2F
解体年:2018(平成30)
Photo 2018.5.10

 愛宕山の西南側の一角の奥にあった洋館。いつ頃建てられたのかは不明だが、戦前のものとも思われるもの。

 ギャンブレル屋根の2階建てで緑色のトタン葺きで、ドーマー窓が付くちょっと可愛らしい建物。愛宕山の丘の斜面に建っていたので、玄関にたどりつくまで十数段、ほぼ一階分の階段があり、下から見上げた時の姿が格好良いお家だった。


 Photo 2018.5.10

 都心だけに周辺には高層のマンションやオフィスが多い。一昨年に訪れた際、既に南側の通り沿いの方は木造家屋群が解体されていて、この近所も空き地や空き家が多くなっていたので、今後どうなるのだろうと思っていたが、その後、半年のうちに解体されてしまった。

 東側には愛宕グリーンヒルズの高層ビルが聳えている。ここまで背の高いビルではないようだが、この家があった一角にもビルが建つようだ。


 北側から Photo 2008.5.21

 一つ上の段に建つ家々へアプローチする階段が東側にあり、そちらを上るとこの家を北側から眺めることができた。上から見ると、玄関部分は瓦葺きの切妻屋根だったことがよくわかる。またこの時点では屋根は塗り直されておらず、比較的おとなしい緑色だった。

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 港区  #住宅系 
#ギャンブレル屋根  #洋館・洋風住宅
ブログ内タグ一覧
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

研数学館

2020-03-12 | 千代田区 
研数学館
所在地:千代田区 西神田2-8
構造 :RC
階数 :本館4F+B1F、別館4F+RF
建築年:1929(昭和4)
解体年:別館 2016(平成28)、本館 2018(平成30)
Photo 1988.11.1

 研数学館は大学受験予備校として知られた学校。老舗なので年配の人の多くが知っているし、通っていたという人にもしばしば会う。ただ、私が受験をした1980年代後半は、代ゼミ、駿台、河合が3大予備校になってしまっていて、やや影が薄くなっていたかもしれない。

 上写真はまだ予備校として使われていた頃のもの。塔屋の上に広告看板が付いていたのに、そこを画角に入れ損ねたのは失敗。下記、「研数学館/西神田2丁目 - ぼくの近代建築コレクション」でも、この看板は一部が写るのみ。

 全体はスクラッチタイル張り。左側、コーナー部に入口があるのが別館、右側の白山通りに面して入口があったのが本館。別館の塔屋には時計が掲げられていたのだろうが、私が接した頃には既にそれはなかった。

 その後、2000年3月に予備校としての活動を終了。しかし研数学館自体は、理学研究者の支援をする財団法人として存続しているそうだ。


 Photo 2002.4.13

 予備校ではなくなったので、建物も無くなってしまうのかと思ったが、その後、校舎の一部を他の大学や学校に貸すようになって意外に長く建物は存続した。写真は大正大学になっていた時代のもの。

 塔屋のある別館は外壁が改修され、どうもタイル張りではなくなりペイント仕上げに替えられていたようだ。塔屋の上の広告も撤去されて、その点は建設当初の姿に近くなっていた。


 Photo 2005.3.25

 本館、白山通り側の入口。こちらの外壁はスクラッチタイル張りのままで、玄関まわりにはテラコッタの装飾もあった。奥の扁額は1941(昭和16)に理数系の旧制専門学校である「研数専門学校」となった際のものだったのだろうか。


 白山通り北側から Photo 2008.4.21

 研数学館の南側は2000年代になってもなぜか2、3階建ての建物が多く、4階建てで塔屋のある研数学館の建物はこの時代になっても意外に存在感を見せていた。


 Photo 2008.4.21

 2008年に訪れた時は別館コーナー部の1、2階は居酒屋チェーン店になっていた。入口上部には大きな電飾看板が設置され、外壁も山吹色に塗り直されていた。学校・財団があるビルに居酒屋が入居したのはちょっと意外だった。


 白山通り側ファサード Photo 2008.4.21

 別館は2016(平成28)に先に解体されて、プレハブのコンビニなどになった。そして本館も2018年4月から解体。こちらは現在コインパーキングになっている。昭和初期の存在感のあるデザインの建物だっただけに、街の変化のなかで解体に至ったのは残念。

研数学館 - Wikipedia
研数学館/西神田2丁目 - ぼくの近代建築コレクション

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 千代田区  #学校  #近代建築 
タグ一覧
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白いばら

2020-03-10 | 中央区  
白いばら
所在地:中央区 銀座3-5
構造・階数:木・3F
建築年:1946(昭和21)
解体年:2018(平成30)
備考 :1951(昭和26)営業開始。2018年1月10日閉店。
Photo 2018.2.4

 1951(昭和26)年にキャバレーとして営業を始め、67年間営業していた老舗キャバレー。
 写真は閉店の約1ヶ月後。既に解体工事が始まっているかと思ったが、この時点ではまだ建物は残っていた。この後、4月頃に解体されたようだ。

 高層化が進む銀座にあって、最近まで木造低層の建物で営業していたことは驚き。ガラス張りの建物が多い最近の銀座では目立つタイル張りで、窓がほとんど無い外観。青い壁面も界隈では珍しかった。

 イメージと違って、ネオンサインなどは比較的地味。帯状のランプ装飾はあるが、ど派手ではない。左手ケース内には地図が飾られていたが、これは閉店後、既に撤去されていた。今回も店が無くなった後で訪ねることになり、営業していた時に灯りの点いた夜景を撮っておけば良かったと後悔。

 縁がなくお店には入ったことがなかったので内部の詳細は知らない。ただ、ネットで検索するといろいろ写真や記事が出てくる。

 外観を見て内部の様子などが気になったので、ネットで検索したり、周辺の方から情報提供をして貰ったところ、建物は1946(昭和21)に建てられた木造バラック2階がベースで、これに1層増築した3階だったということが分かった。

 雨漏りがしたり、老朽化で耐震性にも問題があることから閉店に至ったそうだが、ある意味、よくぞ70年以上だましだまし使い続けてきたものだ、という感じだ。

 通りから見ると四角いビル状に思えるが、航空写真などで見ると勾配屋根だったようで、看板建築状の造りだったことも分かった。

 下記サイトの写真などによれば、店内には2層の吹抜けがあって、その中間レベルのステージを上下の階から眺める構造だったそうだ。華やかな店内写真からはこれが木造建物だったとは思えない。店舗の性格上、内部の改装はしばしば行われていただろうから、当初からのものは、柱、梁などわずかだけになっていたのかもしれないが。

 こういう空間には全く縁がないし、酒も呑まないのでキャバレーの接客スタイルにもあまり興味がないのだが、空間構造やそのデザインは体験したり見ておきたかったと思う。

 そういえば数年前、学生と銀座のまちあるきをした際ここを通り掛かった。その時「キャバレーってキャバクラの変化型ですか?」と訊かれて脱力した記憶がある。私自身、キャバレーを体験している世代ではないが、それでも単語は知っている。だが昭和どころか平成も終わった現在、時代は完全に代わったということなのだろうな。

Wikipedia > 白いばら

白いカシミアのタートルと「白いバラ」のカツサンド – 赤星★探偵団
銀座のキャバレー「白いばら」が、心から惜しまれながら閉店する理由 | 現代ビジネス | 講談社

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #商業系  #遊興施設 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧 鈴の木内装

2020-03-08 | 台東区  
旧 鈴の木内装
所在地:台東区 小島2-7
構造・階数:木・3F
解体年:2018(平成30)
Photo 2012.4.4

 台東区立小島公園の南側にあった洋風看板建築。2012年の撮影時は1階がカーマインという革製品専門店だった。また1990年代の住宅地図では鈴の木内装という会社名が書かれている。「ぼくの近代建築コレクション」によれば、更にその前は今西自動車販売という店だったようだ。

 洋風の3階建てに見えるが、もともとは屋根裏のある2階建てだったのかもしれない。
 というのは、看板建築ではあまり見せるべきでないはずの簡便な形の切妻屋根が中途半端に見えていたのと、その3階部分が後から載せられたように見えたこと、また右側の洋風ファサードの高さが途中から低くされていたからだ。
 あくまで想像だが、もともと屋根を見せないように洋風のファサードを立てた看板建築だったが、増改築をして全体を3階建てにした時に、その増築部分が見えるようになってしまったのではないかと思う。


 北側壁面上部 Photo 2017.10.9

 壁の色は昔からこのような緑色のパステルカラーだったわけではないようだ。前述の「ぼくの近代建築コレクション」掲載の写真では、今西自動車販売だった頃(昭和後期)は、白または明るいグレーに見える。

 外壁はおそらくスレート葺き。柱部分以外の壁面を魚のうろこのように張っているのが珍しかった。


 西側壁面 Photo 2012.4.4

 窓の上の壁面がわずかに反って窓庇になっている。

 2017年秋に訪れた時はまだ存在していて、比較的きれいに使われていたのだが、その半年後の2018年4月時点のGoogleストリートビューでは既に解体中だった。その後、2019年5月時点では更地。個性的な洋風建物が失われていくのはやはり惜しい。

今西自動車販売、他/小島2丁目 - ぼくの近代建築コレクション

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 台東区  #看板建築  #商業系 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

代々木会館

2020-03-06 | 渋谷区  
代々木会館
所在地:渋谷区 代々木1-35
構造 :RC+S(6FまではRC造、7・8FはS造)
階数 :6+R2+B
建築年:1964(昭和39)
解体年:2019(平成31)
Photo 2017.8.27

 代々木駅西口のすぐそばで、昨年まで半ば廃墟状態で残っていたビル。70年代の某ドラマのロケ地としても知られた建物だった。

 築50年ほどだったがメンテナンスされていなかったようで老朽化が激しく、以前から取り壊しの噂があった。権利関係が複雑だったのか長いあいだ放置状態になっていたが、昨年、とうとう解体された。

 南側角。パチンコのネオンサインがあり、矢印がB1の文字を指している。昔から知っている建物ではないので、このパチンコ屋がいつ頃まであったのかは知らない。右手に地下への階段があったのかもしれないが、撮影時、既に建物の大半が封鎖されていたのでそちらへは踏み込まず。

 2階は飲食街だったが、この時点でほとんどが立ち退いていたようだった。

 ちょっと階段を覗いてみた。玄関扉が開いているので立入禁止ではないのだが、独特な雰囲気に気圧されて、上階へ上ることもなくそのまま帰って来てしまった。解体直前まで中国関係の書籍を扱う東豊書店という店が営業していたそうなので、実はこの時も、上へ上がればお店が開いていたのかもしれない。

 撮影時、近辺は外国人旅行者が非常に多かった。明治神宮や代々木公園、新宿が近いからだったのだろうか。

 半ば廃墟化した後に建て替えに至った詳しい事情を知らないのでなんとも言えないが、恐らく部屋が個別に分譲されていて、所有者が分からなかったり、同意を取り付けるのが大変だったのではないかと思う。都心の雑居ビルの中にはこれに近いものも実は多く存在しているのかもしれない。半ば廃墟のような状態で推移する建物が今後増加する可能性もあるのではないだろうか。

 廃墟ファンとかは喜ぶかもしれないが、一般の人々にとっては好ましくない展開。例外的に存在し、稀少だから珍しがられもするし興味深いが、これが多発すると治安上もまずい。それを防ぐにはやはり法制度を見直して建て替えのハードルを下げることが必要なのだろうか。専門家ではないのでそのあたりはよく分からないが気になるところだ。

 ただ一方で、なんでもかんでもどんどん壊して建て替えてきれいにしろというのはちょっと乱暴だろう。スクラップ&ビルドではなく長期的に使っていくことが求められる時代なので、できれば修繕して使い続けて欲しい。その中で、そうでないものが稀にある、という程度が自然なのかもしれない。

 ところで、内部についてはこの時点で既に大半が立入不可だったので、私は全く知りません。上記ドラマのロケ地がらみでの記載も多いので、御関心のある方は下記リンクや、建物名で検索して頂ければ。

Wikipedia > 代々木会館
代々木会館巡礼/「傷だらけの天使」を探して
中国研究者に愛された代々木の老舗書店が閉店 90歳店主が残したもの

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 渋谷区  #商業系  #モダニズム 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飯野装芸

2020-03-04 | 品川区  
飯野装芸
所在地:品川区 大井5-21
構造・階数:木・3F
解体年:2017(平成29)
Photo 2017.3.1

 池上通りに面して建っていた木造モルタル3階建て。大森駅前を通る幹線道路沿いだが、こんな洋風建物がまだ残っているのかと思わされた建物。この時点で営業していなかったようだったのでどうなるのかと思っていたが、この後、半年足らずのうちに解体されてしまった(Googleストリートビュー、2017年9月時点で既に解体済み)。

 細い道の角地に建っており、池上通り側がメインの入口。そして右手の小路の側にも勝手口があった。3階は増築したようにも見え、この3階左側は寄棟造りの瓦屋根だった。また、3階右側はバルコニー。

 南側に隣接する2階建ても、傷んではいるが木造モルタル看板建築。


 コーナー部分

 北側には銅板葺き庇屋根のベイウィンドウがあり、アクセントになっていた。

 正面玄関は引き違い戸。窓や扉は大半が木製でアルミサッシなどには交換されていなかった。大きなガラス戸が印象的。

 ここの上げ下げ窓だけはアルミサッシに替えられていたが、歩道側からの目隠し?は残されていた。


 細道側の入口

 水跳ねで濡れて下部に苔が生え、一部腐ってしまっていたが、それも部外者にとっては味わいのある表情に見えていた。

 角に垂れ下がってるチェーンはなんだったのだろう。接地していなかったので避雷針とかアースではないようだった。また、軒からのものでもないので、雨水をつたわせるチェーンでもなさそうで、用途が分からずじまいだった。


2022.12.21追記
 1973年版の住宅地図では「装雅堂」、1985年版では(有)飯野工芸と記されている。この地域は戦後版の火災保険特殊地図は版がないようなので、その頃の状況は不明。またこの建物がその頃のものなのか、もっと古い戦前期のものなのかも不明。なお、1938(昭和13)年発行の火災保険特殊地図では「鈴木米屋」と記されているが、それがこの建物かどうかも不明。

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 品川区  #商業系 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北野湯

2020-03-02 | 板橋区  
北野湯
所在地:板橋区 徳丸1-33
構造・階数:木・2F
開業年:1961(昭和36)
廃業 :2018(平成30).3.31
解体 :2019(平成31).11
Photo 2015.10.12

 東武練馬駅から谷の中を北へ延びる不動通りに面した場所で営業していた銭湯。
 玄関はやや引っ込んでいて、左右が張り出した形で、正面から見るとほぼシンメトリーな姿だった。張り出した右側はコインランドリー、左側は用途不明。
 戦後の昭和30年代に創業した銭湯だったそうで、お寺か御殿のような宮造り型ではなく、木造だがわずかにモダンな雰囲気を漂わせた建物だった。


 南側から

 撮影時、銭湯の南側は大東文化大学のスクールバスの待機所になっていたため、奥の方まで続く側面を眺めることができた。左端、張り出し部分の2階は後方とは離れていて独立していた。前述のように1階はコインランドリーだったが、2階はどのように使われていたのだろう?

 道路ぎわの2階建ての右側が、番台や脱衣所のある建物、高窓のある部分が洗い場、右端が湯舟とボイラー。どうも玄関両翼に2階建てがあることだけがちょっと特殊で、後方部分は一般的な造りだったようだ。

 全体は木造だったが、玄関のタイル張り丸柱と柱間の細い梁は何製だったのか不明。また、玄関扉わきの壁面と軒庇はホリゾントのように曲面でつながったデザインにされていた。部分的に奇妙にモダンな造りだったのが記憶に残る。

 玄関わきには「マキでわかしています(薪で沸かしています)」との貼り紙が。そういえば建物北側は廃材置き場で、木造家屋の解体現場で出た廃材や箪笥などが山積みになっており、仕入れた廃材を主人が整理していたのを見掛けたこともあった。

 奥に見えるカーブした衝立で男湯と女湯に分けていたのだろうか。貼り紙やポスターがたくさん貼られて、ローカルな感じ。

 豆タイルでモザイク模様を造った玄関部分の柱。傷んでいたがちょっと手が込んでいてなかなかよい味わいを出していた。

板橋ハ晴天ナリ。さらば、赤塚郷昭和の風景。

Tokyo Lost Architecture  
#銭湯  #失われた建物 板橋区 
タグ一覧
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする