「バターン死の行進」の写真説明をAP通信が65年ぶりに訂正した。この写真は
wikipediaにも紹介されているほど有名なもの。フィリピン戦線で捕虜になった米
軍の捕虜が二人がかりで戦死者の遺体をかつぎ行進している姿を撮ったものと
されていた。ところが、最近になって生存者の証言から、そうではなくて行進の数
週間後、収容所で撮影されたものだった。
「バターン死の行進」は昭和17年4月、フィリピン戦線で日本軍に投降した連合軍
捕虜8万人を収容所まで移動させる際、自動車不足から80㌔の道のりを歩かせた
ため数千人が炎天下の疲労とマラリアで病死したといわれるもの。戦後、この責任
を問われ、本間雅晴・第14軍司令官らがマニラ法廷で処刑されている。
すこし考えれば、この写真はおかしかった。捕虜が延々と80㌔もの道を遺体を担い
で行進するわけはなかった。普通、戦死した遺体は、戦闘が終わった後、その場で
土に埋め、日本軍の場合は手の指を切断して戦友が持ち運んだ。マレーのコタバル
では、イスラムで火葬できないため、舟で仏教国のタイ領まで運んだ例もある。
戦争写真の問題性については「南京虐殺」ですでに証明ずみである。中国側が日本
軍の残虐としている写真の多くはインチキか、合成されたものだ。写真の和蘭戦争博
物館発行の出版物の表紙の写真は、戦時下の民間人強制収容所としているが、実
際は戦後、和蘭人がインドネシア人によって襲撃されるのを保護すため、日本軍の兵
士が歩哨にたっているものだ。
wikipediaにも紹介されているほど有名なもの。フィリピン戦線で捕虜になった米
軍の捕虜が二人がかりで戦死者の遺体をかつぎ行進している姿を撮ったものと
されていた。ところが、最近になって生存者の証言から、そうではなくて行進の数
週間後、収容所で撮影されたものだった。
「バターン死の行進」は昭和17年4月、フィリピン戦線で日本軍に投降した連合軍
捕虜8万人を収容所まで移動させる際、自動車不足から80㌔の道のりを歩かせた
ため数千人が炎天下の疲労とマラリアで病死したといわれるもの。戦後、この責任
を問われ、本間雅晴・第14軍司令官らがマニラ法廷で処刑されている。
すこし考えれば、この写真はおかしかった。捕虜が延々と80㌔もの道を遺体を担い
で行進するわけはなかった。普通、戦死した遺体は、戦闘が終わった後、その場で
土に埋め、日本軍の場合は手の指を切断して戦友が持ち運んだ。マレーのコタバル
では、イスラムで火葬できないため、舟で仏教国のタイ領まで運んだ例もある。
戦争写真の問題性については「南京虐殺」ですでに証明ずみである。中国側が日本
軍の残虐としている写真の多くはインチキか、合成されたものだ。写真の和蘭戦争博
物館発行の出版物の表紙の写真は、戦時下の民間人強制収容所としているが、実
際は戦後、和蘭人がインドネシア人によって襲撃されるのを保護すため、日本軍の兵
士が歩哨にたっているものだ。