「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

七草がゆ 消えてゆく正月行事

2014-01-07 06:51:59 | Weblog
遠い70年も前の記憶である。日支事変が始まってまもない昭和13,4年頃だと思う。1月7日の七草粥(がゆ)の朝、亡母(明治26年生まれ)が割烹着姿で台所に立ち、俎板の上で、セリ、ナズナ、ゴギョウなどの春の七草を包丁で叩きながら、”唐土の鳥が日本の土地に渡らぬうちに”と節をつけながら歌っていたのを想い出す。

戦前昭和の東京の正月には、まだこういった明治大正、ひょっとすると江戸時代からの正月行事が多分に残っていた。元旦こそ一家は静かに新年を家で祝ったが、2日には書初めの行事があった。子供たちはなれぬ手つきで墨をすり、毛筆で「初日の出」などと書き、神棚に飾った。場所によって違うが、4日に鏡開きをする家もあった、武家時代、鎧や兜、鏡台などにお供えする習慣があったらしく、鏡開きの日には、このお供えをお汁粉にして食べた。今でもその名残か講道館では、1月の第2日曜日に鏡開きを祝っている。

七草粥は子供にとってそんなにおいしいものではなかった。しかし、15日の小正月に食べる小豆粥は待ち遠しかった。餅を入れた小豆粥の中に、昔は貴重品だった砂糖をたっぷりとかけて食べた。15日はどんど焼き(左義長)の日でもあった。正月の松飾やしめ縄などを神社に持ち寄り、境内にうづ高くつんで燃やした。これで新年の行事は終わった。

わが家では転勤などで、こういった正月行事はここ数十年行われていない。昨日近くのスーパーへ行ったら珍しく七草セットが小さな袋詰めで売っていた、暮れの退院後、医師の指導で低カロリーに徹している僕は早速、郷愁もあって一袋、285円で求め七草粥にし老妻と二人で食べた(写真は七草粥セット)