南方各地へ慰霊の旅をされている、知り合いのIさんから、パソコンのカメラ技術を駆使したお手製の立派な冊子を頂戴した。今回はIさんが”慰霊の原点”とされている台湾のバ―シ―海峡とフィリピンへの再訪の旅だ。僕は戦争中、銃後の小国民として戦死者のご遺骨を駅頭に出迎え、「海行かば」を合唱した世代である。一度は激戦地へ慰霊へ旅をと思いながら機会を逸してしまった。
作家、門田隆将さんの作品「慟哭の海峡」が発表されて以来、台湾海峡のバーシー海峡が、改めて注目されてきたのは好いことだ。”嗚呼、堂々の輸送船”(軍歌暁に祈る)と歌われた軍船団も戦争末期の昭和18年になると、南方へ向かう通り道で、次々と敵の攻撃に会い、沈没され犠牲になった。義兄も高雄沖で船が沈み九死に一生を体験している。しかし、I氏から冊子を頂戴して改めて調べると、バーシー海峡では10万人以上の方が亡くなっているのを知り驚いた。まさに水漬く屍で慟哭である。
Iさんは、いつも日本からお線香とお供えを持参、今回もバーシーか海峡を臨む地へ行き合掌、潜水艦攻撃で4000人が犠牲になった中で助かった玉津丸乗り組みの中嶋秀次さん(故人)が戦後自費で建立した潮音寺にも参拝されてきた。Iさん冊子によると、海峡を見下ろす丘には大陸からの中国人観光客が多かったが、日本人はいなかった。今年も11月20日に慟哭のj慰霊の旅が計画されているが、観光パンフにも紹介され、思いを犠牲者に馳せて貰いたいものだ。
作家、門田隆将さんの作品「慟哭の海峡」が発表されて以来、台湾海峡のバーシー海峡が、改めて注目されてきたのは好いことだ。”嗚呼、堂々の輸送船”(軍歌暁に祈る)と歌われた軍船団も戦争末期の昭和18年になると、南方へ向かう通り道で、次々と敵の攻撃に会い、沈没され犠牲になった。義兄も高雄沖で船が沈み九死に一生を体験している。しかし、I氏から冊子を頂戴して改めて調べると、バーシー海峡では10万人以上の方が亡くなっているのを知り驚いた。まさに水漬く屍で慟哭である。
Iさんは、いつも日本からお線香とお供えを持参、今回もバーシーか海峡を臨む地へ行き合掌、潜水艦攻撃で4000人が犠牲になった中で助かった玉津丸乗り組みの中嶋秀次さん(故人)が戦後自費で建立した潮音寺にも参拝されてきた。Iさん冊子によると、海峡を見下ろす丘には大陸からの中国人観光客が多かったが、日本人はいなかった。今年も11月20日に慟哭のj慰霊の旅が計画されているが、観光パンフにも紹介され、思いを犠牲者に馳せて貰いたいものだ。