「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

慰霊の原点 慟哭のバーシー海峡

2016-09-13 06:40:57 | 2012・1・1
南方各地へ慰霊の旅をされている、知り合いのIさんから、パソコンのカメラ技術を駆使したお手製の立派な冊子を頂戴した。今回はIさんが”慰霊の原点”とされている台湾のバ―シ―海峡とフィリピンへの再訪の旅だ。僕は戦争中、銃後の小国民として戦死者のご遺骨を駅頭に出迎え、「海行かば」を合唱した世代である。一度は激戦地へ慰霊へ旅をと思いながら機会を逸してしまった。

作家、門田隆将さんの作品「慟哭の海峡」が発表されて以来、台湾海峡のバーシー海峡が、改めて注目されてきたのは好いことだ。”嗚呼、堂々の輸送船”(軍歌暁に祈る)と歌われた軍船団も戦争末期の昭和18年になると、南方へ向かう通り道で、次々と敵の攻撃に会い、沈没され犠牲になった。義兄も高雄沖で船が沈み九死に一生を体験している。しかし、I氏から冊子を頂戴して改めて調べると、バーシー海峡では10万人以上の方が亡くなっているのを知り驚いた。まさに水漬く屍で慟哭である。

Iさんは、いつも日本からお線香とお供えを持参、今回もバーシーか海峡を臨む地へ行き合掌、潜水艦攻撃で4000人が犠牲になった中で助かった玉津丸乗り組みの中嶋秀次さん(故人)が戦後自費で建立した潮音寺にも参拝されてきた。Iさん冊子によると、海峡を見下ろす丘には大陸からの中国人観光客が多かったが、日本人はいなかった。今年も11月20日に慟哭のj慰霊の旅が計画されているが、観光パンフにも紹介され、思いを犠牲者に馳せて貰いたいものだ。

戦時下にあった「スマトラ新聞」(5)再録 アチェのF機関

2016-09-13 05:30:13 | 2012・1・1
昭和19年秋、菊池記者は第25軍軍政監部の「作戦××号」によって陸軍報道班員に任命された。作戦命令は北スマトラ.アチェの防衛陣地視察と取材であった。菊池記者は軍政監部が用意したバスでパダンを出発、アチェ海岸に構築された防衛陣地を見て回った。このバスにはパダン駐在の日本の記者や「Padan Nippo」のアジ.ネゴロ主幹も同行していた。すでに戦局は逼迫していて、敵がいつ上陸してくるかもしれない状況だった。

この取材で菊池記者はアチェの首都コタラジャ(バンダアチェ)で、藤原(F)機関の増渕和平氏と会見した。F機関というのは大東亜戦争の初期、陸軍の諜報機関の藤原岩一少佐が率いてマレー作戦でインド人の結集に成功、のちにチャンドラ.ボースを独立インド軍総裁にしてインド独立の礎を築いた機関である。F 機関は同時にアチェの和蘭からの独立運動派にも働きかけ、日本軍のアチェ無血上陸にも成功した。

増渕和平氏は民間人だったが、南方生活が長くF機関に協力、日本軍のアチェ占領後はアチェ軍政監部の顧問として駐在していた。当時アチェでは日本軍に全面協力して独立を勝ち取ろうという勢力、プサ党(イスラム大衆党)が主力で、日本軍もプサの協力で無血上陸したが、占領後分かったことは、占領政策を推進するには、プサではなく、元国王を支持する一派、ウルバラン党であることが判ってきた。菊池記者が増渕氏に会見したとき、増渕氏は、この狭間にあって苦慮していたようだった。増渕氏は20年8月、日本軍の敗戦の責任を取って自殺している。