「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

撃沈された「箱根丸」に乗っていて助かったウスマンさん一家

2016-09-14 06:43:52 | 2012・1・1
戦争を挟んで80年間、日本とインドネシアとの地で、波乱万丈の半生を生きてこられたアミナ、ウスマン夫人(日本名長田周子さん)(101歳)を昨日、5年ぶりに東京の自宅に訪ね、懇談した。彼女の数奇な半生は、すでに何回か、聴き取り調査をさせて頂き小ブログでも一部紹介ずみだが、それでもまだ聴き忘れていることがある。

長田周子さんは昭和10年代、大学生時代、日本に留学中のスマトラの王族出身のマジッド.ウスマン氏と結婚、祖国でインドネシア独立運動をしていた夫、マジッド氏に協力していたが、16年12月、大東亜戦争が勃発、一家は和蘭軍に捕まり抑留されたが、日本軍によって救出された。ジャワのスカルノ、スマトラのウスマンといわれるほどの独立運動の闘士で、日本の軍政下でもスマトラ第25軍の顧問をしていたが、18年5月の大本営の「大東亜政略指導大綱」で、スマトラ独立させずの大綱がきまり、現地軍当局はウスマン一家が軍政の支障になると判断、テイよくウスマン一家を日本に”追放”することに決めた。

今回、僕が初めて知ったのは、18年11月、ウスマン一家がシンガポールから日本に向け乗った「箱根丸」が台湾の高雄沖で米国のB-25の空爆にあい、沈没して一家は九死に一生の体験をされていた事だ。「箱根丸」は戦前、横光利一の小説「旅愁」の舞台になった豪華船だったが戦中は軍に徴発され輸送船として使用されていた。ウスマン一家が乗船していた時も他の乗客はいなかった。ウスマン一家は空爆のあと駆けつけた僚船によって救助されたが、長田さんの話によると、ウスマン一家の当時幼かった二人の兄妹は、かますの袋に入れられて他船に移されたという。

昨日、小ブログは、慟哭のバーシー海峡について書いたばかりであるが、僅か70余年前、愚かな戦争によって、こんな厳しい時代があったのを改めて想起させられた。

戦時下にあった「スマトラ新聞」(6)再録(終)疎開

2016-09-14 05:37:12 | 2012・1・1
昭和20年1月、「スマトラ新聞」は編集部門をパダンから50㌔離れた山間の町、パダンパンジャンに移した。前年の9月頃から戦局が悪化、連合軍のパダン市内に対する艦砲射撃やインド洋上からの艦載機による空襲がが始まり市内のセメント工場が破壊された。このため「スマトラ新聞」も事業部門を残してパダンパンジャンに疎開した。

疎開して間もなくの2月パダンとパダンパンジャンを結ぶ鉄道の中間点の鉄橋を走っていた列車が川に転落、数十人が死傷する事故が発生した。和蘭のスパイが仕掛けたサボタージュで、鉄道のイヌ釘が抜かれて崩壊したのが原因だった。菊池記者は同僚と共に事件直後、現場に駆けつけ、犠牲者の救出活動に当たった。現場は日本人が”彼岸の滝”と呼んでいた大きな滝の近くだった。しかし、この事故は軍の命令で一切、新聞には報道されなかった。

戦局はさらに悪化し、20年5月、インドネシア在住の適齢の民間人全員に対して召集令状が出された、徴兵検査で身体が小さいた目「丙種」で不合格とされていた菊池記者にも”赤紙”が届き、菊池記者は一兵卒として徴兵され、インド洋の警備にあたる「淀」兵団に入隊した。それから、敗戦までの2か月間、菊池記者はペンをシャベルに替え、陣地構築に従事した。その後、菊池記者は、捕虜収容所を転々として