「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

ぺルリュゥ島の二ミッツ提督の顕彰碑

2019-03-24 05:35:52 | 2012・1・1

南方各地の激戦地の巡拝の旅を続けておられる倉敷在住の知人I氏から、昨年6月旅された、パラオ共和国のペルリュゥ島の「カメラ紀行」(私家本)が上梓したと贈って頂いた。ぺルリュゥ島はパラオ諸島の面積13平方キロの小島だが、先の戦争末期、上陸してきた米軍との激闘で1万余人の守備隊が玉砕している。4年前、天皇皇后両陛下も現地を訪れ、英霊に祈りを捧げている。

I氏の「カメラ紀行」を拝見し改めて戦闘の激しさ実感した。各地にある戦跡、慰霊碑、焼けただれて放置されている兵器。ご本とは別に頂戴したご遺骨収集団の焼骨儀式用に集められたご遺骨の写真には頭を打たれた。1万余りのご遺骨を全部収集するにはまだ数十年は要するという。たまたま、同じ激戦地であった硫黄島でも戦い20年目の日米合同の慰霊祭が行われたが、国内の地でも状況は同じようである。

I氏の「カメラ紀行」の表紙に「ペルリュゥ神社」境内にある二ミッツ提督の碑文が紹介されていた。ニミッツ提督は、ペルリュゥの戦いの際の米国太平洋方面の総司令官だった海軍大将である。碑文には“ペルリュゥ日本軍守備隊は祖国のために全員、忠実に戦死せり”と英文で刻まれている。戦後提督がペルリュゥ島を訪れ、守備隊の玉砕を知り、日本軍への顕彰碑として寄贈したものだ。日本守備隊が”サクラ.チル”と電文を残して玉砕したころ、従後の少年立った僕らは”出てこい、二ミッツ、マッカ―サー、出てくりゃ地獄へ逆落とし”(軍歌比島戦闘の歌)を勇ましくガメったりしていた。

激戦地での玉砕の悲報から75年目の歳月が流れる。戦争を体験した世代が存命中に、海外でのご遺骨収集はすべて完了させたいものである。