「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

戦時下にあった「スマトラ新聞」(2) 再録  道新が主力

2016-09-10 06:32:00 | 2012・1・1
「スマトラ新聞」本社はパダン市の中心に近い華僑街のはずれにあった。平成8年2月、僕が菊池秀広氏とパダンを訪れた際には、まだ二階建ての建物は残っていた。元々、この建物は和蘭植民地時代、マレー語(インドネシア語)の新聞、「ラジオ新聞」が発行されていたが、日本軍は18年(昭和)5月ごろ、日本語の「スマトラ新聞」を発行するに当たり、ここを接収して、同時に新しく、マレー語の「Padan Nippo}(パダン日報)を発行した。

「スマトラ新聞」朝刊2ページ建てで、読者は主として第25軍司令部のあったブキティンギ(パダン50㌔北)の軍関係者とパダンの在留邦人800人で、発行部数はせいぜい1000部ぐらいと菊池さんは推定していた。

菊池さんの本によると、「スマトラ新聞」の当初のスタッフは編集局長石沢、パダン支局長栗原、外勤記者,迎、菊池、河と北海道新聞からの出向が多く、このほか印刷局長八尋、次長森は、西日本新聞社、整理部記者、菜畑は東京新聞、速記記者、堀江は河北新報、パレンバン駐在、星野は中部日本新聞社といった混成部隊であった。「スマトラ新聞」間の人事異動もあり、初代の石沢編集局長は軍に”にらまれ、北スマトラ.メダンの華字紙代表に転出、その後には山梨日日新聞から出向の佐藤氏が就任した。そのほか「パダン日報」には大阪外語マレー語科での福山記者がいた。

記事の内容は現地取材と同盟通信からのゲラ刷りの配信記事でであった。同盟通信は第25軍司令部のあったブキティンギに支局があり、記者が一人駐在していた。昭和18年6月、菊池さんがパダンに赴任した時は、まだ23歳で、社内では最年少で、持場は主として華僑街の取材であった。菊池記者は現地で雇った沖縄からの移民漁師の息子、宋丸男を通訳にして市内を取材した。

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