昨日、長野県小海町へ働きに来ている日系日本人三世女性、スサンティさんから久しぶりに暑中見舞いを兼ねて手紙が届いた。スサンティさんの祖父、田上憲喜さん(故人)は、元近衛師団の兵士で戦後、インドネシアに残留、スマトラに再上陸してきた連合軍との間のメダン攻防戦で何回もゲリラ戦に出撃している。僕は1992年、スサンティさんの父親、アミールさんが一家をあげて上田に働きに来ていた時知り合った。まだスサンティさんは中学校を出たばかりの少女だった。
その当時上田市周辺にはインドネシアの北スマトラやアチェ州から来たインドネシア人労働者が百数十人もいた。1990年の入管法改正で日系人なら親族訪問を理由に日本に長期滞在できるようになっため来日した日系二世、三世たちで、戦後現地に残った元日本軍関係者の家族であった。日系といっても、ほとんどが日本語ができず、生活文化の違いからトラブルが続出、地元の日イ友好団体の依頼で、僕らは時々、支援活動にでかけた。アミ-ルさん一家ともこの時知り合った。
あれから時は流れて21年、アミールさんは夫婦で、同じ長野県の小海町の食品会社で引続き働いているが、スサンティさんは郷里に帰って結婚、子育てを終えた後、再び夫のインドネシア人と来日、愛知県で働いていたが、馴れぬ生活のためか離婚、帰国してしまった。届いた手紙によると、今回、成長した子供(四世)を連れて両親と一緒に働きたいとビザを申し込んだが、子供は却下されてしまったという。
彼女の祖父、田上憲喜さんが生前書いた一文が、ジャカルタの残留者組織「福祉友の会」が発行した「帰らなかった日本兵」の中に載っている。それによると、田上氏は戦後故郷熊本の母親と連絡が着き、早く帰国するよう懇請されたが、その時すでに現地の女性と結婚、長男(アミールさん)が誕生していた。帰国か残留かの狭間の中で苦悩した田上さんの心境が、この一文によく語られている。戦争とは一人の人生を変えてしまう。田上一家四代の生き様をみて、つくづくそう思った。
その当時上田市周辺にはインドネシアの北スマトラやアチェ州から来たインドネシア人労働者が百数十人もいた。1990年の入管法改正で日系人なら親族訪問を理由に日本に長期滞在できるようになっため来日した日系二世、三世たちで、戦後現地に残った元日本軍関係者の家族であった。日系といっても、ほとんどが日本語ができず、生活文化の違いからトラブルが続出、地元の日イ友好団体の依頼で、僕らは時々、支援活動にでかけた。アミ-ルさん一家ともこの時知り合った。
あれから時は流れて21年、アミールさんは夫婦で、同じ長野県の小海町の食品会社で引続き働いているが、スサンティさんは郷里に帰って結婚、子育てを終えた後、再び夫のインドネシア人と来日、愛知県で働いていたが、馴れぬ生活のためか離婚、帰国してしまった。届いた手紙によると、今回、成長した子供(四世)を連れて両親と一緒に働きたいとビザを申し込んだが、子供は却下されてしまったという。
彼女の祖父、田上憲喜さんが生前書いた一文が、ジャカルタの残留者組織「福祉友の会」が発行した「帰らなかった日本兵」の中に載っている。それによると、田上氏は戦後故郷熊本の母親と連絡が着き、早く帰国するよう懇請されたが、その時すでに現地の女性と結婚、長男(アミールさん)が誕生していた。帰国か残留かの狭間の中で苦悩した田上さんの心境が、この一文によく語られている。戦争とは一人の人生を変えてしまう。田上一家四代の生き様をみて、つくづくそう思った。
本人の後ろめたさによる残留や、結婚などで帰国できなかったなど理由は様々だそうです。
帰りたくても帰れない事情があるとしたら、とても悲しいことですね。
ただ、日本に帰ってきても戦前の日本とは全く違い、日本人でありながら日本に失望して帰国する残留兵もいるそうです。
戦争とは、本当になんでしょうか。
残留の理由はいろいろありますが、地上戦がなかったインドネシアのスマトラ、ジャワが圧倒的です。当時の日本の若者、とくに農漁村出身者にとっては、南方の土地は魅力的だったのでしょう。