戦争中に西スマトラの高原都市、ブキティンギにあった第25軍司令部で防空壕築造のさい、労務者3千人が虐殺されたという虚報が10数年前、現地で流布され、日本でもW大学のK.G教授、K大学のI.K教授らが新聞や自分の本に書いた。これは全く虚報で、インドネシア政府もこれを認め、防空壕入口にあった虐殺を示す大きなレリーフも撤去した。
2004年12月、僕はこの経緯を産経新聞読者を中心に協力を得て、3千部をインドネシア語、日本語、英語3か国語のパンフレットにして現地を中心に配布した。(写真)これで一件落着とほっとしていたところ、先日小ブログに書いた”橋下代表慰安婦発言 帝国軍人も怒ります」に対して頂いた「Ryu太郎」さんのコメントの中で、いまだにこの虚報に半信半疑信の日本人がいて、この教授らを弁護しているのに、びっくり仰天。改めて虚報の独り歩きの恐ろしさを実感した。
「Ryu太郎」さんのコメントは、ブキティンギ市の観光局のパンフレットには”強制労働で多くの犠牲者が出た”と書いてあり、レリーフが撤去された後でも住民はまだ虐殺を信じているという。また両教授は”悪魔的、非人道的な日本占領時”を知っている当時の住民と多く会っており、それなりの理由があって書いたのだと二人を弁護し、これだけの事で二人の学問業績を批判するのはおかしいと書いている。
僕はこの件につき、現地を5回も訪れており、防空壕の築造を直接指揮した本庄弘直主計大尉(当時)とも直接会って取材している。そのほか第5軍司令部戦友会にも出席、当時司令部勤務だった台湾人の元軍属にもあっている。3か国語のパンフを現地で配布する際にはジャカルタの残留元日本軍組織「福祉友の会」の協力を得て現地に同行してもらっている。もちろん、パンフは現地の市役所をはじめ観光局にも配り、さらにブキティンギの近くにあるパダンのブンハッタ大学にも立寄り、学生たちにも話をしてきた。
推察でものを言ってはいけないが「Ryu太郎」さんは、この問題は右翼の煽動のように思っているフシがあるが、この問題が日本で明るみに出た時、W大K大の両教授が属していた「インドネシア占領期フォーラム」の会長中村光男千葉大学教授(当時)は僕らの問い合わせに対して”労務者の記述は正さるべきであり、、ご当人たちも適当な機会にそうされるだろう”との回答を頂いた。中村教授はいわゆる右翼学者ではない。それより、10年の月日が流れたが、両教授から虚報だったという訂正はない。訂正がないから、こういった「Ryu太郎」さんみたいなコメントがいまだに横行するのだ。
2004年12月、僕はこの経緯を産経新聞読者を中心に協力を得て、3千部をインドネシア語、日本語、英語3か国語のパンフレットにして現地を中心に配布した。(写真)これで一件落着とほっとしていたところ、先日小ブログに書いた”橋下代表慰安婦発言 帝国軍人も怒ります」に対して頂いた「Ryu太郎」さんのコメントの中で、いまだにこの虚報に半信半疑信の日本人がいて、この教授らを弁護しているのに、びっくり仰天。改めて虚報の独り歩きの恐ろしさを実感した。
「Ryu太郎」さんのコメントは、ブキティンギ市の観光局のパンフレットには”強制労働で多くの犠牲者が出た”と書いてあり、レリーフが撤去された後でも住民はまだ虐殺を信じているという。また両教授は”悪魔的、非人道的な日本占領時”を知っている当時の住民と多く会っており、それなりの理由があって書いたのだと二人を弁護し、これだけの事で二人の学問業績を批判するのはおかしいと書いている。
僕はこの件につき、現地を5回も訪れており、防空壕の築造を直接指揮した本庄弘直主計大尉(当時)とも直接会って取材している。そのほか第5軍司令部戦友会にも出席、当時司令部勤務だった台湾人の元軍属にもあっている。3か国語のパンフを現地で配布する際にはジャカルタの残留元日本軍組織「福祉友の会」の協力を得て現地に同行してもらっている。もちろん、パンフは現地の市役所をはじめ観光局にも配り、さらにブキティンギの近くにあるパダンのブンハッタ大学にも立寄り、学生たちにも話をしてきた。
推察でものを言ってはいけないが「Ryu太郎」さんは、この問題は右翼の煽動のように思っているフシがあるが、この問題が日本で明るみに出た時、W大K大の両教授が属していた「インドネシア占領期フォーラム」の会長中村光男千葉大学教授(当時)は僕らの問い合わせに対して”労務者の記述は正さるべきであり、、ご当人たちも適当な機会にそうされるだろう”との回答を頂いた。中村教授はいわゆる右翼学者ではない。それより、10年の月日が流れたが、両教授から虚報だったという訂正はない。訂正がないから、こういった「Ryu太郎」さんみたいなコメントがいまだに横行するのだ。
「従軍慰安婦」問題について
ー戦時中マカッサルの実態を検証するー
http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/mks/ianfu.html
マカッサルの慰安婦についてのスラウェシ情報マガジン有難うございます。戦時中のインドネシアにおける慰安所の実態は、ほとんどマカッサルと同じです。従軍世代は”性”について、今の人たちのように、あからさまに語らなかったため、これが戦後誤解をよぶ原因になってしまいました。カリマンタンでも現地の女性は慰安婦に成り手がなく戦前からの邦人居住者が、軍の依頼をうけてジャワへ女性探しに出かけていますが、いわゆる女衒です。しかし、戦後の売春の実態を知らない若い世代が、騒ぎだし倉沢愛子が監修して中京テレビから放映したことがります。
人間には誰でも過ちがあり。個人攻撃を控えていたつもりですが、いまだに、こういった意見の日本人がいるので、あえて両教授の名前を出しました。
(主題からずれてゴメンナサイ)
左下に「民生部」と書いてある、上の三角地帯は公園です、三角の上の五叉路の左上角のペンション風の家が、当時(昭和17年)の小生の宿舎でした。
左に行くと、すぐに”東洋一の夕陽の見える”海岸に出ます。
此の道路でローラースケートで遊んでました。
道路を挟んで下の住宅がジョニー君(当時小学生)の家で、父親は民生部のお偉方でした。 (メナド人)
戦後、数年後プリオクに辿り着いたら、すぐにジョニー君が逢いに来て呉れました。
(オマエはカミカゼで死んだことになってるよ)って言われました。
ジャカルタの大学に居たんです。
卒業後”PELINI”の支店長を歴任、偉くなりました。
昭和55年に定年を迎えて、もう来ないよって言ったら、マカッサルのホテルで盛大な送別会をやって呉れました。
父母も姉たちも、皆、郊外のキリスト教の墓地に眠ってます。 (語りつくせませんので・・・) 失礼しました。
現地の人々には、日本人が関わることにより、信憑性が増し、また日本に対しては、戦争に関わる歴史を知らない人々が圧倒的な状況なので、加害者意識を涙とともに感情に訴える話をすれば、かなりの人が騙される事を知っています。
これらの反日学者がなぜこのような行動に出るのか理解出来ません。左翼教育の洗脳の賜物なのか、はたまた人権と叫ぶ正義感に酔いしれているだけなのか?今からの世界は、戦争体験者が少ないですから言ったもの勝ちです。この状況を奪回するには、真実をたくさんの目につくように語るしかありません。教育現場から作り変えていく事が近道なのだと思います。真実を語ることが右翼的となること自体が異常です。
ブロ―ガ―のエチケットとして本名を出すなとい家人の勧告で仮名にしましたが、なぜこんな事実と異なることを書くのか正直言って僕にも解りません。二人とも70歳の前半で”全共闘”世代が共通しています。それから外国(米国)で教育を受けています。よい言葉でいえば”目立とう精神”かもしれませんが、k大の女性教授は、日頃の言動から見て”反日”の確信犯かもしれません。学会とはおかしなところで、普通マスコミの世界では、まったくの出鱈目を書いたら会社はクビにします。それが二人とも有名大学で定年まで勤めています。二人との謝罪の意向は内容で、一人は書いたものはエッセイだといっているそうです。この二人の他にも皇族に関係の高校の教師が、さらにひどい嘘を本に書いています。
こちらの項目に,ぉ門がやや違うのですが、
手元にてファイルし始めたスマトラのアルバム寫眞(1912年~1950年、約180枚)を眺めつつ
当時の歴史なども不知ながら僕の先祖たちのインドネシア生活に想いを巡らせたりしております。
「唐ゆきさん、従軍慰安婦、虐殺」などというまことにやんごとない文語に現代に生きる僕の胸は痛むばかりであります。捲る寫眞のなかより長崎出であろう祖母が現地でオランダ人の妻となり父がそのスマトラで生まれ、
最近になって世間サマで騒々しくしている歴史問題というイビツな情報にルーツはどのようなライフスタイルで関わってきたのでしょうか
画像を徐々に整理始めて見ましたので、こちらに米入れてみます。
◆ (昭和9年)父と祖父の集会集合寫眞 J&B(?)クラブ 於;ランサ 1934年 http://yahoo.jp/box/1C4I6d
◆ 1937年4月10日(昭和12年) 祖母「トシ」の還暦祝い(日本人会?)於;ランサ http://yahoo.jp/box/HUuqk8
父たちの生活圏が直接的な日本軍の禍の地ではない、
スマトラ島、メダンからアチュ方面の
Langsa ランサ
Lhokseumawe ロークスェマーヴェ
っといったエリアではありますが、掲題のオドロおどろしい「虐殺、従軍慰安婦」とは全く無縁であるような良き家庭の友好的な人たちが寫眞にはありますが。 … … ..
PS:画像はYahooボックスの短縮URLですが、ご覧いただけない場合はお手数です、お問い合わせくださいませ。
戸川さんの「シンガポール物語」(上下)の中にバリ島の三浦さんとの交遊が出てきますが、何か思い違いからか事実と異なる記述がありました 。多作も作家で、書きとばす癖があるのかもしれません。心しなければなりません。
貴重な写真ですね。ランさもロスマィユもマラッカ海峡に面したアチェの町です。1994年、僕も二つの町に宿泊しています。僕はアチェ人の気質が好きでメダンから車で首都のバンダアチェまで1週間の旅をしています。僕のもう一つブログ「1000都物語」(検索可能)に、その時の話や過去の日本とアチェとの関係を書いてあります。戦争中は近衛師団がメダンからアチェにかけて駐屯していましたが、占領直後ファナテイックな回教徒の間にトラブルがりましたが平穏でした。従軍世代がお元気だった20年ほど前まで「阿智恵会」といいう戦友会があり立派な会報を出していました。今ロスマイユ周辺はLPG景気で発展しています。ぜひ一度ご先祖の地を訪れください。
書かれたとおり、敗戦後の学校教育、メディア報道などで強固に築かれていまのです。K教授のような全学連世代だけに特有ではなく、その後の世代も、また、その次の世代にも、史実と異なることが、日本社会に継続して積み重ねられていきます。
(1)学校で、日本人は戦前極悪なことをしたと先生が教え、教科書にもそう書いてある
(2)新聞、TVなどのメディアでも、それが常識だと報道し続けている
(3)周囲の皆も、そう言っている
しかも、
人道主義という非難されない立場に立って、他者を糾弾するので、反論する人は、道徳的にも卑劣だというわけです。