2年ぶりにジャカルタから帰国した長田周子さん(99)と東京でお会いした。長田さんの半生は日本.インドネシア裏面史そのままだ。僕は2011年6月、小ブログに「混乱の日イの歴史70年を生きて」と題して3回続きで彼女の半生を紹介したが、今年は彼女の混乱の裏面史のモメントとなった「大東亜政略指導大綱」策定から70年である。改めて、この大綱とは何だったか考えてみた。
長田周子さんは大正3年、山梨県の富豪の家に生まれ、当時の女性としては珍しく東京の女子大学に進学、在学中にセッツルメントを通じて日本に留学中のスマトラのダトゥ(地方の有力者)の息、マジッド.ウスマンさんと知り合い結婚した。昭和13年の事である。国際結婚はまだ珍しく、当時の婦人雑誌は”スマトラの青年と国を越えての愛”と大きく報道され話題となった。
長田さんは結婚して名前をシティ.アミナ.ウスマンと名前を変え、西スマトラのウスマンさんの郷里で幸せな結婚生活を送っていたが、昭和16年、大東亜戦争が勃発、ウスマンさん一家は夫人が日本人だという理由で蘭印当局に逮捕されてジャワに送られ抑留された。しかし、日本軍のジャワ上陸で救出されて故郷に帰った。ウスマンさんは独立運動の闘士として知られ、スマトラ駐留日本軍はスマトラに幽閉されていたスカルノ(初代大統領)と交換するような形でウスマンさんを迎えた。
西スマトラのウスマンさんの故郷に近い、ブキティンギに司令部を置く第25軍司令部の軍政はインドネシアの将来の独立に向かって、指導者ウスマンとの間で蜜月時代が続いたが、昭和18年5月「大東亜政略指導大綱」が発表されて一変した。その中で”マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土と決定し、重要資源として極力これが開発、並びに民心の把握に努める”ことが明らかにされて、住民の日本軍に対する態度に変化が出てきた。この大綱に基づき11月、東京で大東亜共栄圏会議が開かれたが、インドネシアは招かれなかった。
ウスマンさん一家は大東亜共栄圏会議を前にして矢野兼三西スマトラ州知事から「内閣情報員」の資格で日本行きを言われた。スマトラの軍政当局はウスマンさんの現地での影響力を危惧しての日本への”追放”だったわけだ。大綱が策定した時期は、日本は緒戦の勝ち戦さに酔っていた時期であった。。今思うと大綱は、もっと慎重な言葉使いをすべきであった。ウスマンさん一家は、大綱に翻弄されて、日本で空襲を体験、日本の敗戦でウスマンさんが故郷に帰ったのは昭和26年。その心労で翌年ウスマンさんは翌年早逝している。
長田周子さんは大正3年、山梨県の富豪の家に生まれ、当時の女性としては珍しく東京の女子大学に進学、在学中にセッツルメントを通じて日本に留学中のスマトラのダトゥ(地方の有力者)の息、マジッド.ウスマンさんと知り合い結婚した。昭和13年の事である。国際結婚はまだ珍しく、当時の婦人雑誌は”スマトラの青年と国を越えての愛”と大きく報道され話題となった。
長田さんは結婚して名前をシティ.アミナ.ウスマンと名前を変え、西スマトラのウスマンさんの郷里で幸せな結婚生活を送っていたが、昭和16年、大東亜戦争が勃発、ウスマンさん一家は夫人が日本人だという理由で蘭印当局に逮捕されてジャワに送られ抑留された。しかし、日本軍のジャワ上陸で救出されて故郷に帰った。ウスマンさんは独立運動の闘士として知られ、スマトラ駐留日本軍はスマトラに幽閉されていたスカルノ(初代大統領)と交換するような形でウスマンさんを迎えた。
西スマトラのウスマンさんの故郷に近い、ブキティンギに司令部を置く第25軍司令部の軍政はインドネシアの将来の独立に向かって、指導者ウスマンとの間で蜜月時代が続いたが、昭和18年5月「大東亜政略指導大綱」が発表されて一変した。その中で”マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土と決定し、重要資源として極力これが開発、並びに民心の把握に努める”ことが明らかにされて、住民の日本軍に対する態度に変化が出てきた。この大綱に基づき11月、東京で大東亜共栄圏会議が開かれたが、インドネシアは招かれなかった。
ウスマンさん一家は大東亜共栄圏会議を前にして矢野兼三西スマトラ州知事から「内閣情報員」の資格で日本行きを言われた。スマトラの軍政当局はウスマンさんの現地での影響力を危惧しての日本への”追放”だったわけだ。大綱が策定した時期は、日本は緒戦の勝ち戦さに酔っていた時期であった。。今思うと大綱は、もっと慎重な言葉使いをすべきであった。ウスマンさん一家は、大綱に翻弄されて、日本で空襲を体験、日本の敗戦でウスマンさんが故郷に帰ったのは昭和26年。その心労で翌年ウスマンさんは翌年早逝している。
ご主人が急逝した事実から、現代人にははかりしれない苦労だったことは推測できます。
ただ、本当の大変さについては想像すらつきません。
今の時代は、近隣国との変な緊張感がありますが、その緊張感を感じている人も一部でしかなく、大半はのんきの暮らしてる日本。
この先は、どうなるのかわかりませんが、戦争はするべきものではありませんね。
長田周子さんには2男2女がおり、長男はドイツで大学の教授、長女は日本の医大を出てインドネシアでお医者さん、他のお二人も米国、インドネシアの大学を出て、ジャカルタにお住まいです。周子さんの実姉[102歳)は故郷の山梨の実家で元気でお暮らしとのこと。
波乱万丈の半生でしたが、一方では超ご高齢、素晴らしい人生だと、つくずく羨ましく思いました。
敗戦前・戦中では、戦意高揚記事で軍部もよりも軍国的に戦争を煽り、敗戦後に手を翻したように、反日記事を欠く朝日新聞などとは異なり、多くの人々は、過去の反省だのと言葉に出せば、清算して済むようなものではなかったと思います。
開戦前に、原油輸入の大半は米国からであったにもかかかわらず、禁輸の通告に右往左往して開戦判断にいたったいわゆる「戦略大綱」なるものは、その場しのぎの思いつきの所産であったように思います。結局、緒戦で蘭印の油田を獲得しても、海洋輸送の制海と制空は米軍に握られてしまい、海上輸送護衛できず、大戦中の石油不足はずっと続いた。中国の満州よりも、エネルギー資源の方が決定的に重要な時代となったことを無視していたと感じます。
エネルギー安全保障の戦略欠落は、21世紀の現在でも変わらずじまいで、福島原発事故以降ただちに、東京湾や大阪湾などに、エネルギー効率の高い最新鋭の大型の石炭火力発電所や天然ガス火力発電所を建設して、中東依存状況をただす替わりに、太陽光発電などに血道をあげている状況は、過去の戦略大綱と再来かと感じます。
戦前の蘭印の石油などをめぐる日蘭会商は第一次、第二次と計5年以上も続けられましたが、結局破綻し、戦争に突入しました。これも日米通商航海条約の一方的ともいえる米国側の破棄です。交渉事は日本はダメなのでしょうか。「戦略大綱」は、緒戦の大勝時のおごりから出たものと思います。TPP交渉を前に、過去の通商交渉を再検討するのも、まんざら意味のない事でもありませんね。エネルギ―政策は、そんな場当たり的なもおなのですか。驚きです。