大学生の孫が昨日、友人二人と東南アジアの”外遊”へ旅たった。彼にとっては初めての国外旅行である。特に目的を持った旅ではなさそうだが、とかく引っ込みがちだといわれる今の若者にとって、かりに単なる遊びにしても若い新鮮な目で外国を見てくることはよいことだ。僕が孫の年だった60年前には外国旅行は”あこがれのハワイ航路”の時代であり、飛行機に乗ることさえ夢の夢であった。
僕が始めて飛行機で”外遊”したのは昭和37年(1962年)31歳の時であった。それでも当時としては早いほうで、外貨の持ち出し制限から一般人には海外渡航は禁止されていた。報道記者の特権で、僕らはまだ利用客の少なかった羽田空港から、ジェット機のはしりのコメット機に乗ってロンドンに向かった。途中給油のため10いくつかの地に立ち寄り30時間以上の長旅であった。
この一世紀、100年間で長足の進歩を遂げたのは航空機であろう。先日亡くなられた作家北杜夫さんの作品「羽田の蝙蝠」は、自伝的に、この航空機の進歩を語られている。北さんは飛行機マニアであった実兄の影響を受けて、子供の時から立川の旧日本軍飛行場や出来たばかりの羽田飛行場へ出かけ、飛行機を観察していたが、昭和6年に出来た羽田飛行場の滑走路は600mしかなかったそうだ。そして滑走路の周囲には蝙蝠が群生していたと書かれている。
昨年から国際空港に復活した羽田には今3000mの滑走路が二つ、2500mが二つあって昼夜の運用が可能になった。戦前、僕は小学校の遠足で羽田へ潮干狩りへ出かけたことがある。羽田に流れ込むエビトリ川では黒鯛の子のチンチンも釣れた。孫の”外遊”から隔世を改めて感じた次第である。
僕が始めて飛行機で”外遊”したのは昭和37年(1962年)31歳の時であった。それでも当時としては早いほうで、外貨の持ち出し制限から一般人には海外渡航は禁止されていた。報道記者の特権で、僕らはまだ利用客の少なかった羽田空港から、ジェット機のはしりのコメット機に乗ってロンドンに向かった。途中給油のため10いくつかの地に立ち寄り30時間以上の長旅であった。
この一世紀、100年間で長足の進歩を遂げたのは航空機であろう。先日亡くなられた作家北杜夫さんの作品「羽田の蝙蝠」は、自伝的に、この航空機の進歩を語られている。北さんは飛行機マニアであった実兄の影響を受けて、子供の時から立川の旧日本軍飛行場や出来たばかりの羽田飛行場へ出かけ、飛行機を観察していたが、昭和6年に出来た羽田飛行場の滑走路は600mしかなかったそうだ。そして滑走路の周囲には蝙蝠が群生していたと書かれている。
昨年から国際空港に復活した羽田には今3000mの滑走路が二つ、2500mが二つあって昼夜の運用が可能になった。戦前、僕は小学校の遠足で羽田へ潮干狩りへ出かけたことがある。羽田に流れ込むエビトリ川では黒鯛の子のチンチンも釣れた。孫の”外遊”から隔世を改めて感じた次第である。
明治17年生まれの父はついに飛行機に乗ったことはなく、新幹線には死ぬ3年前に母と一緒に京都旅行に出かけたさい乗っています。
確かに旅は、年齢によって、その感じ方も違いますね。若い感受性が強いときの旅は一生の財産になりますね。