パキスタンの首都イスラムバードのモスク(回教礼拝堂)と付属のマドラ
ーサ(神学校)周辺で治安部隊とイスラム過激派神学生との間でにらみ
あいが3日にわたって続いている。すでに双方の銃撃戦で19人が死亡、
投降した指導者の呼びかけにもかかわらず、学生たちは篭城したままで
ある。
これと同じような事件が大東亜戦争中の昭和17年11月10日,北スマト
ラ・アチェのバイュで起きている。この地方最大のモスクと付属のマドラ
ーサに立て篭もった過激派と神学生が反日運動に出た。日本軍(近衛
歩兵三連隊)はアチェの全回教組織PUSA(回教指導者連盟)を通じて
説得したが聞き入れられなかった。そこでPUSAの指導者を使者にたて
現地に向かったところ、過激派がいきなりジハード(聖戦)を叫び、刀で
襲いかかってきた。
結果として、双方入り乱れての銃撃戦になりモスクも破壊され炎上した。
進駐してまもない時期、双方の相互理解が不足していたのが第一の原因
で、とっさの出来事で日本側にはイスラムを弾圧する意図はまったくなか
った。だが、インドネシアはこの事件を名誉ある抗日運動として学校で教え
ている。
戦後平成元年になって、この事件に関係した旧日本軍の戦友会が中心となっ
て募金し、廃墟になっていたモスクを再建した。日本人からみれば、戦争
への贖罪なのだが、イスラム教徒にとっては富者が貧者にする”喜捨”にす
ぎない。日本軍のインドネシア国民への弾圧行為として語り継がれている。
ーサ(神学校)周辺で治安部隊とイスラム過激派神学生との間でにらみ
あいが3日にわたって続いている。すでに双方の銃撃戦で19人が死亡、
投降した指導者の呼びかけにもかかわらず、学生たちは篭城したままで
ある。
これと同じような事件が大東亜戦争中の昭和17年11月10日,北スマト
ラ・アチェのバイュで起きている。この地方最大のモスクと付属のマドラ
ーサに立て篭もった過激派と神学生が反日運動に出た。日本軍(近衛
歩兵三連隊)はアチェの全回教組織PUSA(回教指導者連盟)を通じて
説得したが聞き入れられなかった。そこでPUSAの指導者を使者にたて
現地に向かったところ、過激派がいきなりジハード(聖戦)を叫び、刀で
襲いかかってきた。
結果として、双方入り乱れての銃撃戦になりモスクも破壊され炎上した。
進駐してまもない時期、双方の相互理解が不足していたのが第一の原因
で、とっさの出来事で日本側にはイスラムを弾圧する意図はまったくなか
った。だが、インドネシアはこの事件を名誉ある抗日運動として学校で教え
ている。
戦後平成元年になって、この事件に関係した旧日本軍の戦友会が中心となっ
て募金し、廃墟になっていたモスクを再建した。日本人からみれば、戦争
への贖罪なのだが、イスラム教徒にとっては富者が貧者にする”喜捨”にす
ぎない。日本軍のインドネシア国民への弾圧行為として語り継がれている。
とくにイスラム系の宗教は、いつまで無駄な血を流すのか・・・
いつの時代も、この現代になっても、なぜ宗教の為に血を流すのか?
宗教というものは、心の平穏、地上の平穏を願っているのではないのか?
「神は我1人」と教えに書いているのだろうか?他宗教信者は殺せと書いてあるのだろうか?
どの宗教を信仰する人も見ても、この点が不思議でなりません。
日本でも、よく宗教を勧誘されますが、みんな他宗教を認めず、邪教というとらえ方です。
新興宗教については、そういう教えの傾向が特に強いです。
私には、さっぱり理解できません。
どんな背景があろうと、モスクを破壊された時点で、イスラム教信者には屈辱でしょうね。
日本人がどんな償いをしようと、宗教が絡んでしまったら、抗日運動の火種は消せないでしょう・・・
宗教の垣根を悪い意味で超えてしまった場合は、何をしても評価はされないのでしょう。
宗教の壁は厚く、日本人が考える程、容易く超えられるものではないのかもしれません。
どんな戦いにもジハードなんてない!という事にイスラム教徒は気がついて欲しいですよ。
一般のイスラム教徒は、きちんと戒律を守り僕らよりも道徳家なのですが、やはりどこかに排他的なものがあるのでしょう。彼らか見ればジハードかもしれませんが、他の宗教からみれば単なる暴力行為です。
日本人はキリスト教的なものは、ある程度理解できますが、イスラムについては
無理解に近いです。
それでも日本軍は開戦にあたり、最小限度のイスラム知識を一般兵士にもパンフ
して渡していました。
パキスタンは同じイスラム教徒ですから
収拾は大変だと思います。
しかも、国が豊かになるに連れ、日本人に対する態度は変わってきていますが、今でも彼らは白人にはぺこぺこしています。これが私の理解の及ばないところです。
インドネシアについていえば、まだオランダ製品に対する妄信がありますね。
調べたわけではありませんが、300年の植民地支配に対して賠償を求めたというのを聞いたことがありません。
スマトラのかってのプランテーション跡は荒れ果て、むかし白人がプレーしていたゴルフ場で、ジャカルタきた中央政府の役人が遊んでいました。現地の連中は
オランダ時代のほうがよかった、といっていたのを覚えています。
それにしてもパキスタンの騒動はまだ続いているようです。イスラマラードの中心地だそうですね。
パキスタンは共通語としてウルドウ語を使っていますが、州毎に言葉が異なり、また性格も気質も異なるようです。宗教の宗派構成はイランとは逆の構成となっています。また、インドと分かれたときにインドから移って来たムハジールと呼ばれる人たちと、元々の土着民との間でも大規模な衝突が起きています。
多くのイスラム圏の問題と言えるかもしれませんが、衝突の根底には貧困があります。個人商店はかなりありますが、大きな会社が少なく、大学を出ても働く先がありません。父親が絶対的権限を持っているのも、稼ぎ手が父親だけしかいない場合や、就職も父親のコネで見つける場合しかないからです。気候が厳しいのでインフラ整備も中々捗りません。宗教的には富める者は貧しい者に与えることに成っていますし、子持ち未亡人に対する援助組織もありますが、金持ちと乞食は厳然として存在しています。
イスラムが先か貧困が先かわかりませんが、やはり今回の事件の底流には貧富の差があるのでしょうね。
神学校の内部は異教徒(kapir)には理解できない独特の雰囲気があります。ろくなものを食べていないのかもしれません。昔のカルチエラタンや東大紛争の回教版的要素もあるのでしょうかー。