インドネシア研究家の方からタラカン島の戦争遺跡の写真が添付されたメールを頂
いた。内容はインドネシア人の学生が、さきの戦争の際の日本軍のタラカン島の戦
争遺跡を調べているが、誰か当時のことを知っていたら調査に協力を、といった内容
である。
タラカン島は東カリマンタン(ボルネオ)の島で,旧蘭領時代から油田、給油基地とし
て知られている。第二次大戦中は、この油田をめぐって二度も戦闘があった。昭和
17年、戦争の初期、日本軍の進撃の時と、戦争の末期、20年4月からのオーストラ
リア軍を主体とした連合軍の反撃の時である。写真の遺跡は、日本軍の敗走時の
ものと思われる。この戦闘で日本側は1540名の犠牲者(豪州側発表)を出し壊滅した。
タラカン島は今、日本のマリンスポーツ愛好家の間で知られているが、一般には島が
どこにあるのかさえ知られていない。タラカン島に限らず、敗戦直前、連合軍の反撃
にあった激戦地について、日本人はほとんど知識がない。日本本土の空襲で当時の
戦地の負け戦どころではなかったのである。
残念ながら、こういった戦争遺跡につぃては、戦後一部の生還者によって悲劇が伝え
られているだけだ。この世代のかたも今やほとんどの方が鬼籍に入っておられる。さら
に残念なことは、日本の厚労省が、おかしな偏見から生還者や遺族が戦後現地に犠
牲者を偲んで建てた慰霊碑さえ整理しようとしている。戦争遺跡の調査どころではない
のである。南瞑の地には、まだ帰らぬ遺骨が散乱しており、”ダイハツ”が海中に沈ん
だままになっているのに。
いた。内容はインドネシア人の学生が、さきの戦争の際の日本軍のタラカン島の戦
争遺跡を調べているが、誰か当時のことを知っていたら調査に協力を、といった内容
である。
タラカン島は東カリマンタン(ボルネオ)の島で,旧蘭領時代から油田、給油基地とし
て知られている。第二次大戦中は、この油田をめぐって二度も戦闘があった。昭和
17年、戦争の初期、日本軍の進撃の時と、戦争の末期、20年4月からのオーストラ
リア軍を主体とした連合軍の反撃の時である。写真の遺跡は、日本軍の敗走時の
ものと思われる。この戦闘で日本側は1540名の犠牲者(豪州側発表)を出し壊滅した。
タラカン島は今、日本のマリンスポーツ愛好家の間で知られているが、一般には島が
どこにあるのかさえ知られていない。タラカン島に限らず、敗戦直前、連合軍の反撃
にあった激戦地について、日本人はほとんど知識がない。日本本土の空襲で当時の
戦地の負け戦どころではなかったのである。
残念ながら、こういった戦争遺跡につぃては、戦後一部の生還者によって悲劇が伝え
られているだけだ。この世代のかたも今やほとんどの方が鬼籍に入っておられる。さら
に残念なことは、日本の厚労省が、おかしな偏見から生還者や遺族が戦後現地に犠
牲者を偲んで建てた慰霊碑さえ整理しようとしている。戦争遺跡の調査どころではない
のである。南瞑の地には、まだ帰らぬ遺骨が散乱しており、”ダイハツ”が海中に沈ん
だままになっているのに。
日本人の中で、第二次大戦の戦地をきちんと知っている人は少ないでしょう。まして戦後生まれになればなおさらです。日本政府は日本人の中に加害者意識だけを残しても、戦争の真実は消し去りました。今の日本は戦争を語ることすら環境的に難しくなっています。
平和の礎すらお座なりにする国ですから、国民が愚民化するのも当たり前です。腹立たしいです。
日本人が観光でよく行くバリ島の沖に日本の船が沈んでいるそうです。この船は昭和40年代のはじめ戦争賠償で日本がホテルを現地に建てた時、使用した船でその後、不要になったので沈めたそうです。戦争には関係ないのですが、現地のガイドは"バリ島沖海戦”で沈んだ船だと日本人観光客に話しているそうです。多分これと似た話が各地にあると思います。
かっての戦地に残された遺跡は、現地政府と話し合い、整理すべきです。
コメント有難うございます。戦時中のタラカンの資料として「タラカン島絵日記―目でみる激戦記」(実業の日本1985年)があります。
御存じだと思いますがポンテイアナ事件のように信じがたい悲しいものもあります。知っているかどうかで随分違うと思います。