江戸っ子だってね、神田の生まれよー浪曲の「森の石松」の一節だが、神田の名は江戸の町の一つとしてよく知られている。神田鍛冶町₋角の乾物屋のカタクリ硬くて食えない₋ー江戸っ子の好きな戯言の一つだ。明治維新後、江戸が東京に変わり35区政を引いた時「神田区」ができた。昭和22年、今の23区制で麹町区と合併千代田区にるまで「神田」の名前は市民に親しまれてきた。そのせいで合併後も旧神田区の町の中には本来の町名の上に「神田」を冠するものが多い。
JR,,、地下鉄には「神田あるが駅周辺の地名は神田多町であり、神田須田町であり神田淡路町である。しかし一般に「神田」というと都民の中には神保町を言う場合が多い。しかし、jrの駅からは歩けば遠い一え駅でも地下鉄を乗るのではないかと思う。
筆者にとって神保町は想い出の地だ。とくに戦後間もまない旧制中学時代、筆者は教科書や参考書探しに神保町の古本街へよくでかけた。神保町は都心では珍しく空襲の被害にあわず、映画館も二つ残っていた。戦後再輸入された米国の映画が嬉しかった。
数年前久しぶりに神保町を訪れたが、書店にかわってスポーツ関係の店と中華料理店が増えていた。目抜きのすずらん通りから離れて横道を入ったら愛全公園があり、周恩来ここに学ぶとあった。1世紀も前の日中友好のしるしだ。
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