昔のことわざに”旅は憂いもの辛いもの”というのがある。「慣用句ことわざ辞典」(三省堂)によると”交通機関が発達していなかった昔の旅は歩かなければならず、知人も頼るところもなく、とかく思うようにならず、苦しく辛いものであった”とある。現代の旅はどうか。先日80歳老夫婦で一泊二日で長野へ旅したが”憂いもの”でも”辛いもの”でもなくなっていた。
東京から長野市まで今は新幹線で行けば僅か1時間半だが、59年前僕が学校を出て赴任した時は、急行でも6時間かかった。夜11時過ぎ大勢の知人、友人の万歳の声に送られて上野駅を出発、早朝5時すぎ長野についた。夜行列車でろくろく仮眠もでできない”憂い”旅であった。しかし、今は缶ビールを一本飲んでいるうちに着いてしまう。
信越線の軽井沢―長野間が電化されたのは昭和38年、東京五輪の前年である。横川―高崎間もアプト線で列車はゆっくり、ゆっくり走っていた。それだけに碓井峠の駅弁の釜飯が美味しかった。しかしSL列車で、うっかりトンネル内で窓を開けようものなら、顔中煤で真っ黒になってしまった。旅が”憂いもの”であることを実感した。
公共交通機関も昔はエスカレーターやエレベーターが整備されていなかったから、老人にとっては大変な苦労であったに違いない。東京駅とか上野駅など大きな駅には、荷物を列車まで運んでくれる”赤帽”がいたからよいが、普通の駅では大変であった。荷物といえば最近は大きな荷物を持つ旅人をあまり見かけなくなった。宅急便が発達して、大きな土産物や貰い物は別便で送れるようになったからだろう。
旅は確かに昔のように”憂いもの辛いもの”ではなくなったが、車窓から景色をみる楽しみ、プラットホームで時間を気にしながら熱いそばをすする旅の味あいはなくなった。
東京から長野市まで今は新幹線で行けば僅か1時間半だが、59年前僕が学校を出て赴任した時は、急行でも6時間かかった。夜11時過ぎ大勢の知人、友人の万歳の声に送られて上野駅を出発、早朝5時すぎ長野についた。夜行列車でろくろく仮眠もでできない”憂い”旅であった。しかし、今は缶ビールを一本飲んでいるうちに着いてしまう。
信越線の軽井沢―長野間が電化されたのは昭和38年、東京五輪の前年である。横川―高崎間もアプト線で列車はゆっくり、ゆっくり走っていた。それだけに碓井峠の駅弁の釜飯が美味しかった。しかしSL列車で、うっかりトンネル内で窓を開けようものなら、顔中煤で真っ黒になってしまった。旅が”憂いもの”であることを実感した。
公共交通機関も昔はエスカレーターやエレベーターが整備されていなかったから、老人にとっては大変な苦労であったに違いない。東京駅とか上野駅など大きな駅には、荷物を列車まで運んでくれる”赤帽”がいたからよいが、普通の駅では大変であった。荷物といえば最近は大きな荷物を持つ旅人をあまり見かけなくなった。宅急便が発達して、大きな土産物や貰い物は別便で送れるようになったからだろう。
旅は確かに昔のように”憂いもの辛いもの”ではなくなったが、車窓から景色をみる楽しみ、プラットホームで時間を気にしながら熱いそばをすする旅の味あいはなくなった。
旅の情けは世の情けということわざももあります。亡くなった僕の両親が、昭和38年、新幹線で京都観光へ行き、列車内で知り合った方と、亡くなるまで親しくしていました。昔は”旅の情け”があったのですね。志賀直哉の「網走にて」も旅情を感じさせますね