15年戦争という言葉を耳にすることがある。昭和6年(1931年)9月18日の満州事変勃発から20年8月ポツダム宣言受諾の敗戦までをいうのだが、6年2月生まれの僕はまさに、この15年戦争の申し子みたいだ。平和だったのは、生まれてから僅か7か月にすぎない。
しかし、15年戦争は正確には正しくない。満州事変の終結(塘古協定)した昭和8年2月から12年7月の盧溝橋事件までは”戦争”はなかったのだから間違いである。盧溝橋事件の始った年に小学校に入学した僕も、これも正確に言えば2月から7月まで”平和”な時代を生きていた。でも、僕の記憶にある少年時代は、ただただ”戦争”一色である。
不思議なのは、僕の記憶の中にまったく盧溝橋事件が起きた日の事がない。何故なのか亡父の日記帳に当たってみたが、亡父の7月7日の項にもない。8日の項に”北京郊外盧溝橋で日支兵の衝突あり”と簡単に記載されている。そして9日には”日支紛争すったもんだの末、支那が要求を入れ、撤収し終わる。竜頭蛇尾の観とある”当時としては、日本側は”局面不拡大”の閣議決定の線で、紛争を解決したい意向もあったに違いない。
この年、わが家では毎年夏休みに出かけていた房州の海の家行きを突如中止している。やはり、庶民の感覚でも当局が”事変”という言葉をつかっても、ただ事ではない。戦争だということを察知していたのだろう。しかし、中国大陸の戦火が拡大し、4年後の16年12月には英米に宣戦布告、さらに4年後には敗戦の事態を招くとは、だれも予想していなかったに違いない。
しかし、15年戦争は正確には正しくない。満州事変の終結(塘古協定)した昭和8年2月から12年7月の盧溝橋事件までは”戦争”はなかったのだから間違いである。盧溝橋事件の始った年に小学校に入学した僕も、これも正確に言えば2月から7月まで”平和”な時代を生きていた。でも、僕の記憶にある少年時代は、ただただ”戦争”一色である。
不思議なのは、僕の記憶の中にまったく盧溝橋事件が起きた日の事がない。何故なのか亡父の日記帳に当たってみたが、亡父の7月7日の項にもない。8日の項に”北京郊外盧溝橋で日支兵の衝突あり”と簡単に記載されている。そして9日には”日支紛争すったもんだの末、支那が要求を入れ、撤収し終わる。竜頭蛇尾の観とある”当時としては、日本側は”局面不拡大”の閣議決定の線で、紛争を解決したい意向もあったに違いない。
この年、わが家では毎年夏休みに出かけていた房州の海の家行きを突如中止している。やはり、庶民の感覚でも当局が”事変”という言葉をつかっても、ただ事ではない。戦争だということを察知していたのだろう。しかし、中国大陸の戦火が拡大し、4年後の16年12月には英米に宣戦布告、さらに4年後には敗戦の事態を招くとは、だれも予想していなかったに違いない。
韓国は、日本を敗戦国と罵っていますが、当時自分たちも日本人であり、韓国と日本は戦っていないのに、まるで中国人のような主張です。
祖父の数少ない戦争の話を思い出すと、中国人の兵隊は必ず背中に中華鍋を背負い、ヤギを連れていたそうです。
ヤギは食べたり、また女の代わりに使ったとか。
中華鍋とヤギの話しは、中国人らしい話です。
支那事変についての最初の記憶は昭和12年12月の南京陥落です。遠い記憶の中に旗行列に参加したこと、夜お祝いの花電車を見に行ったことがあります。盧溝橋事件の頃は、参謀本部も戦線不拡大だtったのですが、11月の中支那方面本部軍が編成され、独断で南京攻略に踏み切ったようです。子供だったから、詳しいことは無論知らなかったのですが、蒋介石が南京を捨てて重慶に奠都したのは知っていました。
南京は簡単に落ちたと、子供は思っていましたが、やはり激戦であり、日本は陥落前に城を引き渡すよう降伏勧告のビラを飛行機で配っています。その点、まったく事前通告もなく、原爆を投下したり無差別爆撃を行った米国とは違います。
子供の記憶にも中国兵には便衣兵が多く、負けると民間人に早変わりしてしまうこと。青竜刀という昔ながらの刀を持って日本刀には太刀打ちできないこと。蒋介石がハゲ頭であることなど。戦争ごっこでは服を裏返しに着させて捕虜にしたことなど、覚えています。
戦争とは平和時の常識は通じません。
日本人の靖国神社参拝は「慰霊」が目的だが、盧溝橋の抗日戦争記念館の訪問では、慰霊ではなく「復讐・敵意・憎悪の増進」が目的ではないかと思われます。
盧溝橋といっても日本人は、ほとんど知らないのではないでしょうか。中国が盧溝橋に、そんなに”思いれ”しているとは知りませんでした。勉強になりました。両国民の間の温度差では片づけられないものがありますね。これでは歴史認識問題など解決できませんね。