「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

戦争が終わって学校が再開された頃

2013-08-25 06:33:06 | Weblog
戦争が終わって学校(旧制中学)が再開され、僕が初めて登校したのは8月27日であった。終戦から12日も経ってからであった。僕が通学していた学校は、5月24日の空襲で木造建物は全焼したが、鉄筋3階建て校舎は残っていた。しかし、残っていたというだけで、窓ガラスは全部壊され、何故か床板もはがされていた。校舎の一角には、焼け出され行き場のない近所の人が住んでいた。

昭和20年1月、中学2年の3学期、僕らは勤労動員され六郷(大田区)の軍需工場で”人間魚雷”の部品製造に当たったが、この工場が4月の空襲で全焼、そのあとは千葉県の利根運河の浚渫工事に従事したり、破壊された鉄道の架線の張り替えなどをしていた。この間、工場勤務の時は週に1回の登校日はあったが、その後はなく久しぶりの学校であった。8か月ぶりの教室での授業は嬉しかった。休み時間には壊れた講堂の鉄骨の上で”鬼ごっこ”遊びなどした。

学校が再開してまもなく9月2日、東京湾上のミズリー号で降伏式が行われ、やがてマッカサー司令官指揮いる連合軍兵士が進駐してきた。中学生だった僕らの目には、進駐軍とくに黒人兵士が珍しかった。また初めて見る四輪駆動のジープに目をみはった。級友の中には女の兵隊(WAC)の姿みたさに丸の内まで出かけた者もいた。

学校では教練を教えていた配属将校がいなくなり、暴力教師と僕らが恐れていた剣道の教師も学園をさった。極端な神がかった修身の教師も自ら辞めていったようだ。一番困ったのは教科書がない事だった。先生が板書するものをノートに写す授業が多かった。一方、学校は再開したが生活難から学園に戻ってこない級友も多かった。

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2 コメント

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価値観の変化 (kakek)
2013-08-26 13:13:13
chobimame さん
戦中戦後のある時期、活字に餓えた時代がありました。トイレで古雑誌の”落とし紙”に読みふけったこともありました。連合軍の教育政策が確立するまでは、学校も何を教えてよいか苦慮したようです。国語では無難な徒然草が使いやすかったらしく、中学(昭和22年)大学予科(23年)2年続して教わりました。22年、英語で「Rip Van Wincle」が教科書として使われましたが、戦争で英語力の落ちている僕らには、さっぱりでした。
教科書が墨塗りされたのは、僕らより3学年下の当時小学生だった世代からです。先生も生徒も大変苫だったことでしょう。 価値観の変化で、教育も急速に左傾化したと思います。
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学ぶ (chobimame)
2013-08-26 11:49:34
学校が、再開して嬉しいなどという感覚は、今の日本にはありません。
学ぶことに飢えるというのは、学問に対する欲求が高まるのですね。
学校には、急に左翼的な思考の教師が増えたと聞いた事があります。
その頃から一気に右から左に方向転換したのでしょうか。
教科書を真っ黒く塗り潰して、勉強にならなかったとか。
大変な時代ですよね。
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