ベッラのブログ   soprano lirico spinto Bella Cantabile  ♪ ♫

時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

青山繁晴 「インサイトコラム 」「ザ・ボイス」2015年8月19日・20日

2015年08月20日 | 政治

青山繁晴 インサイトコラム 2015年8月19日



2015/08/20 ザ・ボイス 青山繁晴


2015/08/20 に公開
最初に「安倍談話」について
続いて次の通り

1.菅官房長官が自民党を離党した武藤議員に説明求める

2.大阪高槻市の中1少女殺害事件 不審なクルマは一台か

3.FRBが議事録公開 利上げが近づくという見方を示す

4.韓国の朴槿恵大統領が中国の抗日戦争記念行事に出席へ

5.トヨタ自動車が天津工場の操業停止を延長

6.広島の土砂災害、きょうで発生から1年

7.バンコクでの爆弾テロ事件 犯人の情報提供者に懸賞金


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佐藤健志氏、別のメールマガジンで「安倍談話」を語る

2015年08月20日 | 政治

★ 昨日の佐藤健志氏のメールマガジンに続いてご覧ください。同じところもあるのですが、佐藤氏、ハッキリ言って下さった。
昨日の佐藤氏の文はここをクリックhttp://blog.goo.ne.jp/bellavoce3594/e/66619666d9da68aaaa8bfbb689c4ce80


安倍談話が触れなかったこと

8月14日、戦後70年を記念した「安倍談話」が発表されました。反応は(当然ながら)賛否こもごもといったところ。現政権に批判的な人々が「ちゃんと謝罪していない」といった反応を見せているのはもちろん、現政権を支持する人々の間にも「歴史に十分、筋を通していない」という不満があるようです。

これ自体はもっともな話。今回の談話に、さまざまな制約がつきまとったことは疑いえない。諸外国との関係はもとより、国内の状況を見ても、安保法制の審議がゴタついたり、内閣支持率が低下傾向を見せたりしています。良くも悪くも、思い切ったことが言える状況ではないでしょう。

総理官邸ホームページに公表された談話全文を見ても、歯切れがあまり良くないというか、「無難なところで抑えた」(ないし、抑えざるをえなかった)印象がありました。

ただし、そのような条件のもとで発表された談話ということを前提にすれば、かなり頑張ったのではないでしょうか。

とくに評価したいのは、先週の記事でも触れた「反省と謝罪の分離」を、しっかり盛り込んだこと。このくだりです。


日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。


しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。



「歴史と向き合い続けるが、謝罪を続けることはしない」と、ハッキリ明言しました。
ついでにこういう表現をすれば、「向き合うだけでは足りない! 謝罪を続けろ!」とは、さすがに主張しにくい。

戦後50年にあたって談話を発表し、「痛切な反省と、心からのお詫びの気持ち」を表明した村山元総理は、今回の談話の内容を批判、「自分の談話が継承されたという認識はない」という趣旨のコメントをしています。

けれどもエドマンド・バークも述べているように、過去の世代が行ったことを根拠として、現在の世代の責任を追及するのは、決して正義にかなったことではない。村山元総理のコメントは、裏返しの形にこそなっているものの、安倍談話の功績を正当に評価したものと言えるでしょう。

だとしても、安倍談話に気になる点がないわけではありません。

いわゆる「昭和の戦争」の背景として、西洋諸国の植民地支配を挙げつつ、「日本には日本の正義があった」ことに触れなかったのもそうですが、より重大だと思うのはこちら。

第2次大戦後の国際秩序について、善意に基づいた公正なものと位置づけすぎている点です。

関連して指摘したいのは、戦後70年間の歴史をめぐり、安倍談話がある事柄について、まったく触れなかったこと。

お分かりですね?

1989年まで続いた、アメリカとソ連(現ロシア)の構造的対立、いわゆる「冷戦」です。

談話によると、わが国が敗戦後の苦難を切り抜けられたのは、日本人みずからの努力に加えて、

敵として熾烈(しれつ)に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげ

となっていますが、これはいささかキレイゴトにすぎる。
善意と支援の手」の陰には、ソ連をはじめとする社会主義諸国に対抗するうえで、日本を自分たちの側に引き込まねばならないという、アメリカの戦略的な計算がありました。だからこそ、豪州や欧州諸国も同調したのです。

ここを看過してしまうと、「アメリカに代表される自由主義的な価値観=世界の普遍的な正義」ということになりかねません。
中国や韓国に謝罪を続ける宿命から解放されるかわり、アメリカに感謝と協調(ないし追従)を続ける宿命が待っている次第。

「愛国のパラドックス」に収録された「日米協調はなぜ絶対視されるのか」や「韓国の反日を封じ込める道はある」でも論じましたが、
本当の歴史(認識)問題は、中国や韓国との間ではなく、アメリカとの間にある。向こうが求めてくるものが、反省や謝罪ではなく、構造改革や規制緩和なので、事の本質が見えにくくなっているだけなのです。
※詳細はこちらをどうぞ。
「愛国のパラドックス: 「右か左か」の時代は終わった」(アスペクト) (★ 私もこの本を読みました)

自民党の高村副総裁は、最近の講演で「頼むから オウンゴールは やめてくれ」という川柳を披露しましたが、それにならえば「めでたさも 中くらいなり 安倍談話」というところではないでしょうか?

ではでは♪

佐藤健志

image by:自由民主党

★ 俊才・佐藤健志氏、さすがです。ところで佐藤氏がご自身のサイトで面白いことを書いておられますのでご紹介を。http://kenjisato1966.com/%e5%ae%89%e5%80%8d%e8%ab%87%e8%a9%b1%e3%81%8c%e8%a7%a6%e3%82%8c%e3%81%aa%e3%81%8b%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%81%93%e3%81%a8/

(最近の自民党議員をめぐる問題には)

論評に値しないようなことがいろいろある。

力関係が全くわかっていない

軽率な、というか

「『懲らしめろ』 懲らしめられて 『ごめんなさい』」
みたいな話。


あるいは、

「集まって みんなでひいきを 引き倒す」
みたいなね。


私の率直な感想でいえば、

「頼むから オウンゴールは やめてくれ」
と、こういう感じですね。


★ 私個人の安倍談話のことだけれど、pieta!(お慈悲を)と他国に慈悲を請うているイメージがどうしてもぬぐえない。
  日本人としてのプライドもある。本当に情けない、悲しい、敗戦ということがこんなに大きいなんて。
  昔からの友人のA子さんから靖国神社のお土産を頂き、父にお供えをした。心をこめて生きているように語り掛けた。
  「無念です」

  ・・・これは後世が判断することになると思うが。
  大変な世界情勢であることもよく理解している。
  そのうえでどうしても言ってしまう。これって憲法前文だ・・・って。忍の一字。



★ 昨日、原爆のことについて竹田恒泰氏の新刊本を買って読んだ。
『アメリカの戦争責任』戦後最大のタブーに挑む。
・・・原爆投下の正当性を問わずに日本の戦後は終わらない。


内容紹介  PHP新書 820円(税別9

「本書はいつか通らなければならない道をあえて今、歩いてみようという試みをするものである」



戦後70年を経るなかで、これまで日本では数々の「戦争責任」が語られてきた。だが、そこで絶対的なタブーとして誰もが目を背けてきたテーマがある。それが、原爆投下の正当性に疑問を投げかける「アメリカの戦争責任」だ。そして、少しでもその問題に触れようとした人たちは、社会的に抹殺されてきた。


しかし、その問題を直視することなくして、戦後の本質と真の平和を語ることはできない、と竹田氏は言う。なぜ、日米ともに原爆投下の正当性を疑うことは、タブーとされているのか。アメリカの教科書は原爆について、いかにそれを正当化し、子供たちに伝えているのか。


そうした現状を踏まえながら著者は歴史を遡り、トルーマン大統領の目的が「原爆投下で日本を降伏させる」から「原爆投下まで日本を降伏させない」にすり替わった恐るべき史実を描き出していく。「ポツダム宣言」に仕掛けられた「日本が絶対に降伏できないような工作」とは、何だったのか。


原爆を落とすのが先か、それともソ連参戦が先か……。終戦直前のドラマを知れば知るほど「原爆を落とすことで早く戦争を終わらせる」という「早期終戦・人命節約論」が、欺瞞に満ちたものかがわかるだろう。そうした「原爆神話」から目覚め、両国が先の大戦を反省してこそ、真の日米友好が築けるはず。



★ リッカルド・ムーティ指揮 ヴェルディ『アッティラ』序曲(約3分)

Riccardo Muti - Verdi - Attila - "Obertura" - 1991

・・・この音楽の中に「無念」を感じる・・・「覇王」アッティラと「最後のローマ人」エツィオ両方の無念である。
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稲村公望先生 『フーバー大統領回想録』 その3 未定稿

2015年08月20日 | 政治

フーバー大統領回想録(その3)未定稿

第九文書と題する記録を仮に翻訳してみたい。

「日本 1946年5月、4,5,6日  東京

私は、ダグラス・マッカーサー大将と、5月4日の夕方に3時間、5日の夕方に1時間、そして、6日の朝に1時間、サシで話した。

マッカーサーは、アジアの同盟国と南太平洋の全ての運命が大切な時期に補給が細って飢餓状態になっているとして、

ルーズベルト大統領に対して苦々しく考えていた。

マッカーサーは、ひとりあたり3トン半の補給を受けているが、北アフリカがひとりあたり14トンの物資の補給があったのに比べると

非常に少なかった。

マッカーサーは、ルーズベルトは、いろんなやり方で 復讐心(vindictiveness)を示したと述べた。

マッカーサーだけが、集団での意見交換の会合に呼ばれていなかった。

ホワイトハウスのコラムニスト連中は、マッカーサーを卑下することが多く、(その点、ルーズベルトが、マッカーサーのことをマクレラン

(南北戦争の時にリンカーン大統領に反対した軍人)と呼び、問題児と呼んでいたことを確認できる)。

ホノルルでの意見交換会議があったときに、マッカーサーは、大統領との個別の会見は予定されていなかった。

大統領の演説を起草を担当していたローズマンと海軍の連中が、海軍の指揮下で、北太平洋のルートで軍をすすめる計画を推した。

そこで、マッカーサーは強硬に10分間、サシで大統領に会見をすることを要求している。

マッカーサーは大統領とサシの会談で、もし、194年の選挙以前に進展があることを期待するのであれば、南ルートで、

島伝いにフィリピンに侵攻することによってのみ、達成されると大統領に述べた上で、

1944年の十一月にもフィリッピン上陸が可能であると進言している。

マッカーサーは、ルーズベルトの関心を喚起して、承認を取り付けた。

この会談の一部始終を、ローズマンは壁耳をして、聞き耳を立てていた。

ルーズベルトは、ニミッツ提督が激怒したとされるが、海軍の提案を受け付けなかった。

マッカーサーは、ニミッツが、自分を許していないと述べた。

マッカーサーに寄れば、ルーズベルトが関心を持ったのは、自分自身の政治的な可能性だけで、優れた戦略を論じる観点からは、

効果のない話であったとしている。

マッカーサーはフィリピンを取り返して以降は、いつでも日本と和平ができたと考えている。

日本の軍事的なギャングどもは、自分たちを支えている足が切り落とされれば、敗北することを知っていたからである。

しかし、ルーズベルト大統領は、日本に対して最後の詰めの行動を自ら指揮することをしないと決め込んでいた、とマッカーサーは言う。

最後の(日本を降伏させる)式は、ニミッツ提督に行わせる手順であった。

沖縄戦での被害が比較的に大きかったことが、そして、(1語単語が欠けている)トルーマン大統領に影響をあたえ、

それに、世論が加わったことで、最後の決断が行われた。

私は、マッカーサーに対して、トルーマンにあてて1945年の五月半ばに、覚え書きを提出したことを紹介して、

その内容は、日本と和平を達成することができれば、我々の主な目的は達成されるという内容であったことを伝えた。

マッカーサーは、その通りが正しく、そうしていれば、すべての大損害、複数の原子爆弾、満州に対するロシアの侵入も避けることができたと述べた。

私は、日本の戦争の全体が、戦争に入りたいという狂人の欲望であったと述べたところ、マッカーサーも同意して、

又、1941年七月の金融制裁は、挑発的であったばかりではなく、日本が、その制裁が除去されなければ自殺行為になったとしても、

戦争をせざるを得ない状態に日本を追い込んだ。

制裁は、殺戮と破壊以外の全ての戦争行為を実行するもので、いかなる国と雖も、品格を重んじる国であれば、我慢できることではなかった。

マッカーサーは言葉を続けて、ルーズベルトは、1941年の九月に近衛と和平を達成できた筈だと述べ、

そうすれば、太平洋と、中国の自由、そしておそらく満州の自由を確保するという米国の目標を全て獲得していたに違いない。

また、マッカーサーは、近衛は、天皇から、完全撤退に合意することの承認をもらっていたと述べた。

マッカーサーは、ポーリーとFEC それに報復的なリベラルの連中は日本を破壊しようとしていると述べた。

マッカーサーは、そのリベラルの連中の報告や態度については、感情を高ぶらせた。

その一例として、ポツダムでの合意挙げて、マッカーサーは、建設的な計画であると言う対局の精神から作られたとした。

マッカーサーは、日本が平和時の経済を取り戻して、産業を再構築すれば戦後の賠償を払うことができるが、そうでなければできないと、述べた。

そうした理由で、必要なことは、武器の製造工場を破壊し、日本人を武装解除して、それを監視するための委員会を継続して、

一時間くらい離れた島に飛行場の持つことであるとした。

マッカーサーは、日本の軽工業あるいは重工業のいずれをも抑制することは必要ではないとして、

現在工場施設を取り除くという脅しがあるために、産業再生に向けた行動ができない状況にあると述べた。

マッカーサーは、マーシャルが中国で成功する確率は、2千分の1であるとして、また、ソ連との交渉においてロシアの妨害を細部に亘って説明した。

ソ連は、持続的に日本ジャップに政治宣伝をおこなっており、日本の捕虜の間で共産主義の学校を作り、日本に浸透作戦を行っている。

もし、日本の生活水準が低下して重い賠償金が課せられることになれば、日本は、自由を求めて、又ロシアの保護を求めるために共産化する可能性があり、

アジアにおける共産主義の潮の流れに対抗して、日本から太平洋に広がる思想的なダムを造ることが必要だと述べた。

迅速に止めなければ、ソ連は満州国に傀儡国家を作る可能性があるが、軍事手段を持って阻止するのではないと、マッカーサーは考えている。

一般的に言って、マッカーサーは、太平洋における戦争の結果について悲観的な見方をしている。

私は、マッカーサーに対して、米国内で、1948年の大統領選挙の立候補になることを期待する向きが多いとのべて、

自分もマッカーサーが当選することを信じるとのべたところ、マッカーサーはその気がないとのべたので、そうだろうと結論づけた。

本国アメリカでは、道徳的なそして政治的な退化現象が大きくなっており、不満や、極度の華美、賭博などが、大きくなっていると述べて、

1946年の選挙のあとの適当な時に、帰国して米国国民の評価を受けるためには、道徳問題と、政府、そして外国との関係の

三つの課題についての演説会を行うことができれば、洗者聖ヨハネのようにアメリカが必要とする人物になることができると

のべたところ、マッカーサーは、何時が適当な時期なのか教示して頂ければ、実行に移そうと述べた。

マッカーサーは、30年から32年までの、我々の関係について同情的に述べ、更には、マッカーサーが、(フーバーの)

準備計画を防御する為に、ルーズベルトとの確執が起きた最初の理由であったことや、ルーズベルトがその計画の削減のために

いかにこだわったかなどについて縷々述べた。

私が、日本人のための食糧計画に反対するのではないかとおそれていたらしく、マッカーサー将軍の部下から提案されていた、

栄養の最低を千キロカロリーにすることに賛成ことに感謝した。

その数字は、生存するためには低い数字であるガ、それまでは、もっと以上の栄養がとれないと失望状態にあったからである。

マッカーサーの部下の一ダースくらいの数の人と、戦争と平和、日本経済、アジアの諸問題について意見を交換した。

彼等の心を占めていたのは、ロシアの脅威であった。

だから、日本を訪れていた空軍の司令官のひとりは、私に真剣な顔をして、90日以内に戦争にならないだろうかと尋ねてきた。

空軍の組織をガラガラにしたばかりの時だったから、早く、何とか空軍の組織の立て直しをしなければならないと考えたらしい。

私は、大丈夫だ、ロシアは、収穫時期を過ぎなければ戦争を起こさない(時は五月で、北半球の秋の収穫の時期は八月か9月である。)、

答えておいた。

注. マーシャルは、中国で国民党と共産党を和解させるために訪中していたし、統一中国を造ることを
めざしていた。
ポーリー(Edwin A. Pauley)は、トルーマンが任命した人物で、ヨーロッパではドイツの賠償についてのアメリカ代表を務め、
日本と、ソ連が占領した朝鮮と満州の日本の財産についての米国の賠償問題に関する代表団の団長を務めた。)(つづく)


★ まだ続きますが、この文の掲載を許可して下さったチャンネルAJER様、そして稲村公望先生に心から感謝を捧げます。この続きは日をあらためて。本日はここまでです。
  







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稲村公望先生  『フーバー大統領の回想録』その1・その2、未定稿

2015年08月20日 | 政治

★ チャンネルAJIERさまを通して稲村公望先生の論文を許可を得て転載させて頂きました。
『フーバーアメリカ大統領の回想録』です。エントリの終わりに参考動画があります。


フーバー大統領の回想録(その1)とする。未定稿である。

稲村公望 中央大学大学院公共政策研究科客員教授
略歴=昭和二十二年、徳之島の郵便局宿直室に生まれる。
東大法学部卒、フレッチャースクール修士。総務省政策統括官(情報通信担当)等を経て日本郵政公社常務理事に就任後、郵政民営化に反対して退任。


今年は、日本が大東亜戦争で米英蘭ソ中の連合国に負けてから七十周年を迎える。

雑誌「月刊日本」の平成24年(2012)2月号に、歴史学者のジョージ・ナッシュ氏が編集した、

第三十一代米国大統領の回想録『Freedom Betrayed(裏切られた自由)』の要点について紹介記事を書いたことがある。

筆者は、同回想録には、大東亜戦争の歴史の書き換えを迫る重大な指摘と記録が含まれていると考えているので、

紹介したものであるが、確かに大きな反響があった。

急いで邦訳されることが大切だと考えて、総理官邸をはじめ、外務省の幹部にも邦訳すべきと進言と陳情をして回ったが音沙汰はない。

英文で千ページ近くの大部冊であるが、内閣の経費や組織力を使って翻訳すれば、短時間で完成するし、

あるいは新聞社などマスコミの外信・外報部あたりがチームを編成して翻訳作業に当たれば短時日で完成できるし、

邦訳する価値がある資料であると説得したし、世界に向けて歴史事実を発信している団体が翻訳の音頭をとる動きがあり、

翻訳権取得が困難であると聞き及んではいたが、一日千秋の思いで待ってはいても、邦訳出版される気配はない。

戦後七十年がたって、大東亜戦争の本質についての異論を唱えることは、歴史修正主義というレッテルを貼られて糾弾されるのが

おちのような情勢であるが、しかし、米国大統領の回想録であるから、米国民も歴史修正主義者と決めつけて誹るわけにはいかない

だろうと期待しながら、また、日米戦争の本質が書かれているから却って日本語への翻訳が意図的に阻害する勢力が

いるのではないかと疑心暗鬼になったりもしている。

敗戦国日本の汚名を削ぐためには、翻訳の遅れを嘆いてばかりいるのは、時間の無駄であると決意して、戦後七十年にあたり、

自虐史観あるいは「東京裁判史観」という戦勝国の押しつけを克服するための必読の文献資料であると考えるので、その要点を、

伝統と革新の記事として再度まとめて、自立・自尊の日本を追求して名誉を回復する一助としたい。(つづく)


フーバー大統領回想録(その2)未定稿。

開戦70周年の年の12月8日に憲政記念館で、「アメリカはなぜ対日戦争を仕掛けたのか」と題する講演会が開催された。

満員の盛況だった。YouTubeに掲載され、急逝したブロガーの花うさぎこと故安仲徹男氏が講演要旨をまとめている。

㈰1951年5月3日、マッカーサー元帥は、上院軍事外交委員会において、「日本の真珠湾攻撃は正当な「自衛権」の行使と証言。

㈪経済封鎖は戦争行為であることはパリ不戦条約作成者の一人であるケロッグ国務長官が上院軍事外交委員会で

(真珠湾攻撃の13年前の12月7日)認めた。

㈫日本本土爆撃計画が大統領に提出されたのは、真珠湾攻撃の5か月前の7月18日で、OKのサインが7月23日に出された。

蒋介石の米国人傭兵が操縦する350機の戦闘機と150機の爆撃機が大陸から日本各地に焼夷弾を投下する計画だったが、

飛行機の引き渡しが遅れ真珠湾攻撃が先になった。

戦争回避をめざす交渉打ち切りの通告が攻撃開始後に遅れた懈怠は糾弾されるが、最後通告を米側は傍受解読して読んでいた。

1941年12月8日午後12時30分から、ルーズベルト大統領の米国議会の両院合同会議で演説して、

「昨日、1941年12月7日、この永遠に汚辱(Infamy)に生きる日に、アメリカ合衆国は、日本帝国の海軍及び飛行部隊に突然、

そして計画的に襲撃されました。」と、全米にラジオ放送したが、日本に対する先制爆撃計画については触れず、

卑劣な騙し討ちとするリメンバー・パールハーバーの怒号のみが残った。

1991年12月26日にABCが、バーバラ・ウォルターズ氏が司会する秘密爆撃計画についての特集テレビ番組を放送したが

話題にならず、(YouTubeのhttp://wwwlnk.net/cc/yMMCeztP/参照)

日本爆撃計画の全貌が明るみに出たのは、戦争が終わって52年も経った1997年である。

米陸軍航空隊シェノールト退役大尉がロークリン・カリー大統領補佐官等の支援の下で立案して、大統領の承認を得た計画の全貌が、

アラン・アームストロング氏により2006年に出版され、塩谷紘氏を翻訳者として、

2年後に「「幻」の日本爆撃計画—「真珠湾」に隠された真実(日本経済新聞出版社)として出版された。

日本への先制爆撃計画「JB-355」を承認したルーズベルト大統領のサイン入り文書の写真が掲載されている。

ちなみにカリー補佐官は、ソ連に機密情報を提供したとして1956年に米国籍を剥奪され、

冷戦のさなかに南アメリカのコロンビアに亡命した人物である。

ルーズベルト政権中枢に共産主義者が浸透していたことは、対ソ諜報活動をまとめた「ベノナ文書」で明らかにされている。

さて、田中英道教授の「戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」」(展転社)の出版も、日本が戦後政治の分水嶺を越えた証左である。

戦時中の戦略情報局(OSS)文書が解禁され、戦後史の根本的な書き換えが始まり、同書は、ルーズベルト大統領が社会主義者で有り、

親中反日に固まった人物で、日本の十八都市に原爆投下命令書にサインをしたこと、対日戦後政策が昭和17年には既に作成されており、

フランクフルト学派に影響を受けたOSSがGHQの占領政策のお膳立てをしたとする。

「従軍慰安婦」問題の発端がOSSの謀略にあるとし、野坂参三の帰国についてもOSSの後押しがあったと指摘して興味深い。

近衛文麿がハーバート・ノーマンに殺されたと解説して、OSSが中国の共産化を成功させ、

ケーディス大佐を中心とする民政局の心理作戦が戦後のメディアや社会風潮に残存してしまった、

日本をドイツのように犯罪国家に仕立てた経緯を述べて、ソ連がビヒモスであったことをフランクフルト学派が追求しないことは

世界を荒廃させた原因だと解説する。

さて、1948年の原著出版元のエール大学出版局に不買運動が起きて禁書同然に扱われた幻の名著、

チャールス・A・ビアード博士の「ルーズベルトの責任ー日米戦争はなぜ始まったか」が、藤原書店から邦訳が発売されている。

ルーズベルト大統領が米国を戦争に巻き込んだ張本人だと糾弾した大著である。

フーバー大統領の回想録「FREEDOM BETRAYED(裏切られた自由)」(ジョージ・ナッシュ編)が死後47年を経て

出版された。

戦後訪日し、マッカーサーと会談して「日本の戦争の全てが戦争をしたい「『狂気の男』の欲望によると指摘して、

マッカーサーが同意した」等と記録していた。

日本の近代史を書き換えを迫る新事実が続々と内外で公表され、東京裁判史観の混乱と原因を清算する時が来たようだ。

フーバー大統領の回想録は、957ページに及ぶ大部冊で有り、全文を読むことには困難があるが、その重要な部分を紹介する。

編者のジョージ・ナッシュ博士の経歴は、次のリンクのサイトに掲載されているが、英文であり、長文に渡るので、

リンクを紹介するにとどめる。

http://wwwlnk.net/cc/upVaeztP/

フーバー元大統領は、終戦直後に、来日して、マッカーサー将軍と会見している。

その会話記録のなかで、「太平洋における第二次世界大戦は、狂った男の戦争に入りたいという欲望から生じた結果であると

直裁に述べたと記録している。

狂った男とは、フランクリン・ルーズベルト大統領のことである。

会見記録は、㈰米国は1941年に日本との戦争を回避できたこと㈪米国は、原爆を投下しなくても1945年に日本に勝利できたと、

フーバー大統領が回想録に記録していることを裏付ける資料である。(つづく)



参考動画~日本語字幕あり、また途中で日本語訳も流れます。

FDR plans sneak attack before Pearl Harbor (1st half)


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