宮崎正弘 v 渡邉哲也・・・対談の本ですが、さっそく書店に並んでいるのを見ました。
下記に奥山篤信氏が書評を寄せておられます。
『南北戦争か共産主義革命か! ? 迫りくるアメリカ 悪夢の選択』(ビジネス社)
武漢ウイルス・パンデミックによる世界のパラダイム激変、米国トランプ政権からバイデン政権の偽善的衆愚主義の文化大革命、支那におけるアリババ帝国崩壊による大波乱、日本経済五大リスクさらに日本の大危機をどう乗り切るか等、常に魚眼的かつ立体的に分析する二人の賢者の対談である。
題名も意味深であり格別の期待もあり読了した。
<悪夢の選択>という言葉は京都大学・大阪大学で教授を歴任した井上俊(桑原武夫・鶴見俊輔らとの現代風俗研究会などがある)の『悪夢の選択──文明の社会学』,筑摩書房という書物があるが、この書は<文化とコミュニケーションの隘路 不可視の内部を持つ者同士が頻繁に接触し,さまざまの関係を取り結ぶ複雑で流動的な現代社会では,コミュニケーションは見せかけや偽装などのレトリックを必要とする.
しかし,このような社会を思想史的に展望するならば,超越的な理念,懐疑と自省を無視できなくなるだろう>の帯にあるように、宮崎・渡邊対談本を暗示する意味合いも深読みできる。
さらに僕や宮崎先生の同世代に圧倒的人気があった、東西冷戦時代のベストセラー作家のフレデリック・フォーサイスの<悪魔の選択>という東西陣営の戦術的・戦略的騙し合いを暗示する、意味合いもあるだろう。
まさにこの書はいつもの宮崎先生の絶賛すべき<同時性と瞬発力 さらに近未来予言>能力を渡邊氏とともに遺憾なく発揮した書であると感服する。
ちょうど親子の年齢差である二人の対談は全く期待通りのもので、臨場感にあふれる武漢ウイルスの世界のパラダイム変化の現実さらにトランプ後のアメリカの反動、それは世界の平和などに資するどころか混迷が予想され、日本の国益に真っ向から不利な世界の政治・経済の組み替えが予想されるなかで、その問題点をIT産業の行方と方向性など、丁寧に展開してくれている。
フォーサイスのタイトルにある悪魔という言葉において、選択肢の中で見かけ最も魅力的なものが、じつはその複雑系のなかで利害に反する裏目(back fire)になりうる結果を念頭において・・・・
残念ながら日本では、宰相たる器量も能力も期待はずれで、なかった人間が総理となり、いきなりアメリカニズムの権化竹中平蔵やアメリカ人の<ブレーンとやら)を置き、特に真正・保守陣営の期待は裏切られ、まさにそこにある混乱に面して居て、希望もない。トランプ・安倍なき後の(ロス・トランプとロス・アベの)ショックは日本にとって大きいと二人は語る。
思うに菅が悪い、いや二階が癌だと行っても物事は解決しないが、下手をすれば我が国は覇権主義支那帝国の元に沈没(精神的かつ物理的にも)する恐れもある。
そのなかでオバマの第三幕(version 3)を演じるバイデンがまさに偽善と欺瞞にひそむ暴力的な衆愚主義の必然というパラドックス、支那との対決をさけて支那を増長させたオバマの悪夢の再現(トランプはまさに平和を保ちながら、紛争地帯制作に見事なバランスをもたらした功績とは反対に偽善を唱えるエセ平和主義の欺瞞性と暴力性を語っている)希望的な材料はない。宮崎氏は岸信夫氏にほのかな希望を寄せている。
最後に渡邊氏が日本の施策を語っているが、<強いアメリカの秩序のなかで自発的な思考の停止を続けてきた日本の甘えの構造>まさにそれを捨てる勇気と気力がないかぎり、日本に未来はない。
具体的施策より以前にあるはずの政治的国際的な基本理念、つまりはっきりとしたビジョンがない甘えの構造を打破することこそが、もう70年たった今でもトラウマとしてあるこの現実を思うと呆然たる思いだ。誠に近未来を見据えた必読の書といえる。
(評者 奥山篤信)
★ ブログ主より・・・私は書店で手に取ってこの本を見たが、奥山篤信氏の書評にこの両者(特に宮崎氏)の言い得なかったこと、そして背後から強い「むしろ言いたいのはこうであろう」というような後押しを感じた。
奥山篤信氏の書評というのは、この本の著者が言いたかったことを的確に明示しながらも、奥山氏ご自身が以前から鋭く現状を見据えた上で、両者の意見を尊重しながらも全体の流れの中で「真に問うべき重大なことのエッセンス」を明らかにされたような気がする。
奥山氏は「まともな論者であることが条件だが」という上で、「書評を書く面白さは、他者の考えを基に自分の考えを展開できる」と仰っていたことから、私はこう考えた。
「作曲家の意図を読みながらも時間をおいてそれを明らかにする指揮者に似ています。」と。もちろん良い曲・良い演奏というのが条件ですが・・・。
ただ、これはこの本に於いての批評であり、奥山篤信氏の鋭い舌鋒は今進行中の政治について、一寸の妥協もない。
それだけにここに氏の確実な分析や感覚を載せるには、山の裾野の一部をご紹介するに過ぎない。
音楽で言えばヴァーグナーの「ライトモティーフ」が何の障害もものとせず、それぞれの反応を「無限旋律」として組み合わせていく手法を思う。
そしてそれは「全く正しい正論中の正論」でありながら、時代はそれには驚くべきほどの鈍さと品性のなさで、大いなる才能は地団太を踏みながら天に向かって楽曲として「誰も遮る者はいない」状況の「芸術」として成就する、というものである。
私は時にスクリャービンやムソルグスキーという楽曲に似たようなイメージを持つことがある。
奥山篤信氏のプロフィール
映画評論家、文明評論家。1948年、神戸市出身。1970年、京都大学工学部建築学科卒業。1972年、東京大学経済学部卒業。1972~2000年まで米国三菱商事ニューヨーク本店を含め三菱商事に勤務。2014年、上智大学大学院神学研究科修了(神学修士)。2014年よりパリ・カトリック大学(ISTA)に留学
★ 奥山篤信氏の本を読んで・・・このオペラを書いたムソルグスキーの考えも見た気がした・・・
モデスト・ムソルグスキー - 歌劇《ホヴァンシチナ》第4幕間奏曲
★ 以前、新型コロナワクチンについて書いていたのですが、その前にもっと以前からの疑問を下記に記しました。
日本人には新型コロナウイルスの「集団免疫」がある、と言って出版社や書店を儲けさせているある「京都大学特定教授」がいるが、こういう論にもならない論?で世間をにぎわせているような「虚無とミテクレの世界」を受け入れさせようとする政治界の意図が見え隠れするのを一瞬にして見破るという役目は「スパイ防止法」の一環として必要だろう、「アベ総理が昨年冬に大量の中国人を入国させた結果で、日本人にはコロナの集団免疫ができた」ということ、これを多くのyoutubeも取り扱っていて絶賛のようだが、高須幹弥医師(高須克弥院長のご子息)は、「もしそうだと信じることになれば多くの被害者が出る、感染症の専門家の先生がたはおおいに疑問視されている。もし不幸なことになれば切腹ものだ」と勇気ある発言をされている。
どうも胡散臭いと思うのは「中国人大量入国」を批判でなく「偶然にプラスになった」ということで、それは政治の明らかな失策と「親中」をおかしな論でカヴァーをしようとしているのではないか、集団免疫があるならワクチンはこれからも不要だろう。医学研究者は国民の健康を預かっている立場で、政治のとらわれや忖度なく、正論を述べてほしいものである。
参考動画1
号外【ニュースを斬る!】上久保靖彦先生から国民及び菅政権へのメッセージ
参考動画2
京都大学大学院上久保靖彦教授の日本人は既に集団免疫を獲得している説は本当ですか?
松田学氏ってこんなこと言っていていいのかなあ・・・上久保氏の意見を完全に信じている。
ブログのティールーム
Ettore Bastianini ~ Antonietta Stella in " La Battaglia di Legnano "
この「パートリア」という歌詞が繰り返されていること、ヴェルディがこのオペラを書いたのは祖国統一運動でガリバルディ将軍を支持していたことだ。Patria とは「祖国」の意味である。
このオペラはヴェルディのオペラの中ではマイナーなものだが、これを歌うだけの力量のある歌手が今はいないことを惜しむ。
1961年、スカラは全力をあげてこのオペラでオープニングした。歌手はヴェルディ歌いとして最高のステッラ、バスティアニーニ、コレッリであった。
ブログ主より・・・この日本の国難・有事を乗り切るには日本の与野党の一致協力が前提だ。
しかし頼みの「真正保守」はいない。自民党が「保守?」、だったら野党は何?
こんなプロ野球の球団応援のようなやり方ではだめだ。「呉越同舟」「日本型ロンバルディア同盟」が必要だ、そう思う。毎日情けないであろう・・・嘘やごまかし、こっそりと利権の横行、居直り、・・・確かに「もっと議論することがある」というハンで押したような言葉で擁護する政権のシンジャ、しかし泥棒の言い分ではないか。
野党の口達者なずうずうしい「看板?」議員、これらアホの為に野党にいる真面目な議員は迷惑している。
・・・こうして狭い井戸の中のケンカで時は無為に過ぎていくのだろうか・・・。