「隊員の叫び声」射撃場で何が 自衛官候補生が小銃発射し2人死亡 安全管理は?(2023年6月14日)
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今、宋に活躍した「蘇軾」について考える。
蘇軾はどのようにして時の政府を批判し、からかったのか。蘇軾はたとえば時の政府の高官たちを、ガアガアなく蛙、ジイジイなくセミ、頭が空っぽの鶏に譬えた。これは政府の高官に対する許しがたい攻撃であることは無論、朝廷への反逆でもある。だから蘇軾には、死刑にするほかふさわしい処分はない、こう御史台は皇帝に対して上奏した。
だが皇帝は蘇軾を死刑にすることはなかった。皇帝は蘇軾に私心がないことを評価していたのだ。
結局、蘇軾は4か月余りに及ぶ拘禁の末、この年の大晦日に釈放されて出獄した。出獄後の蘇軾を待っていたのは、黄州段錬副使という職であったが、それは体の良い名称で、実際は流刑のような境遇だった。
生涯鼻っ柱の強かった蘇軾は、この出所に及んでも、意気軒昂たる姿勢を崩さなかった。彼が出所に臨んで作ったとされる二篇の詩が、そのことを物語っている。そのうちの一つを紹介しておこう。
平生文字為吾累 平生より文字吾が累を為す
此去聲名不厭低 此れ聲名を去ること低きを厭はず
塞上縱歸他日馬 塞上縱に歸らん他日の馬
城東不鬥少年鶏 城東少年と鶏を鬥はざらん
日頃筆禍を以て虐げられてきた自分だ、評判が落ちることなど気にはしない、釈放された今は塞翁の馬のような気分だ、もう餓鬼どもと闘鶏に興じるようなまねはやめよう
この詩を書きあげて筆をおいたときに、蘇軾は「本当に自分は性懲りのない人間だ」とつぶやいたそうである
(上記はネット記事参照)
仁宗の皇后、曹氏は蘇軾を尊重していた。
曹氏は次の皇帝である神宗に蘇軾を赦免し再び迎えることを申し出たが、神宗はそれを拒否した。
WIKIによると・・・仁宗の治世末期から深刻化してきた社会的・政治的な矛盾に対して、行動を起こす必要性を感じていた神宗はそれを容れず、王安石を支持し続けた。
一方、曹皇太后の方は蘇軾の恩赦を願い出ている。蘇軾は人となり傍若無人なところがあり、加えて直言の人であったため、投獄されている間、彼の死罪を求める運動が広がっていたという。蘇軾と弟の蘇轍は、仁宗の頃に制科の功績があったため、曹后はこれを理由に赦免を願い出た。これには神宗も折れたという。
【鄭雲龍】電視劇《清平樂》片尾曲《尋光》・・・孤城閉
仁宗の皇后曹氏は文武両道で美人、武家で男兄弟の中で育ったので本当はヤンチャなのだが、皇后になってひたすら本来の自分を抑え、良き皇后になろうと懸命に努力したが、謀反の危機の時など、鎧を身に着け、長剣を持って皇帝を護ろうとした。仁宗は曹皇后にあこがれながらもその強さに唖然とし戸惑い、距離を置いて寵愛はなかった。
それとは逆にキャーと喚いて泣いて皇帝にすり寄る側室の張氏(踊り子出身)は、自室から出ないという規則を破って「陛下の無事を・・・」と叫び泣く。町堂の臣たちはいつもは教養がなく癇癪持ちの張氏を嫌っていたが、この時は何と曹皇后を非難したのであった。(曹皇后の心情を解するのは若き宦官で剣の相手をしている張茂則で、彼は曹皇后にあこがれていた。しかし自分の境遇な立場を思い、叩かれても誠意を込めて皇后に話しかけるのだった。張茂則は後に皇帝の一人娘に仕えている少年の宦官の梁懐吉に「将来、想い人ができたら自分の境遇を悲しく思うだろう」と忠告している。秀才の梁懐吉にそれとなく学問を教えたのは「蘇先生」だった・・・)
張茂則と曹皇后(孤城闭)● 精彩看点:又kdl!茂则为皇后抱不平被皇后扇了一巴掌
仁宗は悲しそうに皇后に言った。「そなたは皇后として誰もかなうものがないではないか」と。仁宗が皇后に「国境近くに親政として出陣する」と意気揚々として話した時も「ここはこうして防御に徹するのです。地勢はこのようになっています」と地図に黛と口紅で印をつけた。「そなたは曹家という武門出身、兵法は詳しいしその通りだと思う。しかし黛や口紅は化粧の時に使え!」と言って不機嫌になった・・・すれ違う夫婦、ただ仁宗の最期でやっと夫婦として本当の信頼を語って互いに涙した。
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Conductor: Karl Elmendorff Orchestra: Dresden Staatskapelle Composer: Richard Wagner
Die Walkure: Act I Scene 3: Siegmund heiss ich und Siegmund bin ich!