まだ「序」しか読んでいないけれど、この序に書いてあることに悲しい感動を受けた。
ドナルド・キーンはオペラ評論を書くとその言葉の美しさ・的確さなど絵巻物を観る思いに近かった。
たとえば、マリア・カラスが歌うヴェルディ「トラヴィアータ」で、高級娼婦だったヒロインが、アルフレードという田舎出身の青年に愛され、幸せな生活をしていたが、その青年の父親が彼女に「息子とは別れてくれ」と言ってくる。
ヴィオレッタは、アルフレードとその家族の為に自分は身を引く決意をするところ、「別れる」とは言わずに「アルフレード、あなたを愛しているわ」と歌って去る、大変悲しい場面、これを名歌手マリア・カラスがどう歌ったか、それを観ていない人々にもひたひたとその感動を伝えてくる書き手であった。
「音盤風姿花伝」にはこう書かれている。
・・・ときどき人々は、日本文学研究者のこの私が、日本の伝統的な価値基準である余情とはまったく対照的と思われているオペラに夢中であることに、驚きの気持ちを表明することがある。
確かに「アイーダ」のラダメスの勝利の帰還は、「熊谷陣容」の熊谷直実の勝利の(と思われている)帰還とはまったく異なった印象を生み出すものである。
しかし、われわれには人間が生まれつき持っている、変化を求める気持ちがあるから、パルテノン神殿と桂離宮の両方に感嘆することができるのである。
だが、それは別にしても、芸術にはどこか深いところで、互いに理解しあえる要素が確かに存在しているのだ。
六條御息所が光源氏の愛と、現世という「火宅」を捨て去る前に、鳥居の前でためらう瞬間は、「椿姫」(ヴェルディ「トラヴィアータ」)で、ヴィオレッタがアルフレードを追い払う前に「私を愛して、アルフレード、私があなたを愛するのと同じくらいに・・・さようなら!」と最後の愛の言葉を発する瞬間と、実はそれほどに違っていないのだ。
私はいまだにそう叫んだ時のマリア・カラスの声を聴き、カラスの身ぶりを見ることができるのだが、それは最高のドラマと忘れ難い音楽の見本として、わたしの六條御息所の思い出と溶け合っているのである。
これを読んだのは私の10代後半、ヴェルディを歌いたいと思っていた時であった。
でも、私はこの恐ろしい女のサガというのを歌うのを、特にこの「トラヴィアータ」については、数あるヴェルディのオペラの中で歌いたくない作品になってしまったのだ。
私にはとても・・・という気持ちがあった。ただ華やかに歌う曲ではない。
そして私はマリア・カラスという稀有なソプラノの実演をおおいに期待した。
彼女の歌はひとつひとつが最高だったし、あがめてしまうような存在になった。
しかし、彼女は衰えもはやく、私が実演(多分彼女の最後)を聴いた時は、もはやホールに声が響くような状態ではなかった。
そしてその尊大なステージマナーは、反感を持つようになったのだった。
以上が私が知っていた「ドナルド・キーン」だった。
しかし、今日、「百代の過客」の序を読んで、いたたまれない気持ちになってしまった。
ドナルド・キーンは戦時中、日本人兵士の遺した「日記」を読んでいた。
「例えば船体の中で自分の船のすぐ隣を航行していた船が魚雷を受けて目の前で沈むのを見たようなとき、その兵隊が突然経験する恐怖、これはほとんど読み書きができないような兵士の筆によってさえ、見事に伝えられていた。
特に私は部隊が全滅してただの7人生き残った日本兵が、南太平洋のある孤島で正月を過ごしたときの記録を覚えている。
新年を祝う食物として彼らが持っていたのは、13粒の豆がすべてであった。彼らはそれをわけあって食べたのだという。太平洋戦争の戦場となったガダルカナル、タラワ、ぺリリュー、その他さまざまな島で入手された日記の書き手であった日本兵に対して、私は深い同情を禁じ得なかった。
たまたま手にした日記になんら軍事的な情報が見当たらない時でも、大抵の場合、私は夢中になってそれを読んだ。実際に会ったことはないけれども、そうした日記を書いた人々こそ、私がはじめて知るようになった日本人だったのである。
・・・こうした日記の中には、自分が戦死した後、拾って読んでくれるアメリカ兵に宛てた英語のメッセージを書き記したものもあった。
そしてそれらの日記は沖縄戦で誰かが持っていったと嘆いていられる。
私は、涙がでなかった・・・喉の奥でこらえた、涙を流すよりも苦しいときにそうなるのである。
「花の金曜日」であるが、私はケーキを買わなかった・・・(青字はベッラ記す)
キーンさんはオペラにも詳しいのですね。私はキーンさんの名前は数十年前に初めて知りました。私の元上司の奥さま(アメリカ人)が文楽の本を書いたのです。そのお手伝いをした時、キーンさんが本の冒頭に紹介記事を書いた時でした。
「ドナルド・キーンコロンビア大学教授日本へ帰化」というタイトルで私のブログに昨年書きました。
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/2011-04.html
マリアカラスの歌もさっそく聴かせていただきました。カラスの歌は素人の私でも魅せられます。カラスといえば、ジャッキーケネディがカラスの恋人だったオナシスと結婚して騒がれましたね。
「マリア・カラス」のジョコンダの後にも追加記事を書いていましたので、そこに入れさせて頂きました。
私はこれから新年を迎えるとき、戦地の兵士の方々のことを思い、感謝し尊敬を捧げてすごしたいと思います。
子供の頃からお茶碗にご飯粒が残っていると
米と言う字は農家の人が88の手間をかけて・・・
と怒られ育ってきました
今でも食べ物を残すことが出来ません
食べ物を頂ける事だけでも
本当に感謝ですね
こんな地獄でも、お互いに微笑み「おめでとう」って、日本のお正月を、ですよ。
どれほど祖国日本を愛し、たった7人の仲間でお正月のお祝いをする・・・辛いです。
その心の豊かさ、というよりもけなげさ、日本人として、どこまでも日本人として・・・。
両親や親戚から聞いていた戦時中の話に摩り替わってしまいました
お恥ずかしい・・・
日本から遠く離れた南海の孤島で
どれだけ祖国日本を思っていたでしょう
記録に残る事も無く
心細くも祖国への家族への思い溢れる日本兵がどれだけいたのでしょう
13粒の豆ではあったけれど
分け合う仲間がいて良かったと思ってしまいました
分け合う仲間すらいなかった方々もいらっしゃったと・・・
「みんな、死んでしまった。楽になったんだなあ、ってうらやましく思うこともあった」と父は言っていました。
でも、7人が13粒の豆をわけあって(数ではない)、日本にいたことを想い、日本の家族を思って二度と帰ることができない(・・・実際にキーン氏が日記を読んだ時はもう亡くなっていたそうです。)私は、この場面を瞼に思うのです。
最後まで日本人として、そしてお正月をそのような形で祝うことのけなげさ、これは7人だったらよかったとか、ひとりだったらどうとか、そういうことではないのです。
想像を絶する悲惨さの中で「日本人としてのけなげさ」に涙するのです。涙が枯れるほど!