情況、情景描写が筆を尽くしても物足りないのなら、逆転の発想で、いっそ文章を削るだけ削って、読み手のイマジネーションに委ねようというのが俳句だ。
その手法だと、解釈がまちまちになってしまう恐れがあるので、私は俳句というものをあまり好きではない。
140文字制限のツイッターでさえ、伝えたい思いをうまく表現できないのに、17文字の文章で何が伝えられるのだろう。
作者の思いと受け手の感じ方が、ぴったりと一致することなどあるのだろうか。
作者は受け取り方を相手に委ねる限りは、自身の思いが正確に伝わらなくても、一応、雰囲気だけでも感じてくれたらOK牧場よ、と達観しているのか。
そんなんでええんか、松尾芭蕉よ。
俳句は好きでなくとも、心に残る芭蕉の一句はある。もちろん自分なりの解釈をしての上だ。
夏草や兵どもが夢の跡
巷で解釈するところの、奥州平泉の藤原一族の栄華など、私は知らんし、この句からイメージもできない。
夏草とか兵どもという圧倒的な強さが、単純にイメージされる。それが夢の跡と続けば、終わって久しい感じだ。
中学生の夏の頃授業で習ったように記憶しているが、定かではない。
高校の夏休みに、田舎の波止場から伝馬船で渡った無人島で、セイタカアワダチソウの生い茂る中を、小高い丘の頂上へ登ると、そこに小さな祠があった。
その時に私の脳裏に去来したのが芭蕉の例の一句だ。(この辺のくだりは拙著「さらば夏の日1970」に収録<Amazon Kindle Storeにて発売中>)
かつて、この無人島にも人が住んでいて、日々の営みが繰り返されていたのだろうと思い起こされた。
そして今は風雨にさらされた祠が、ひっそりと往時を偲ぶように佇んでいる。
この句にぴったりの情景だと思った次第だ。
青春の入口のそんな思いも、遠い過去の話で、それこそ今にして思えば夢の跡だ。
その手法だと、解釈がまちまちになってしまう恐れがあるので、私は俳句というものをあまり好きではない。
140文字制限のツイッターでさえ、伝えたい思いをうまく表現できないのに、17文字の文章で何が伝えられるのだろう。
作者の思いと受け手の感じ方が、ぴったりと一致することなどあるのだろうか。
作者は受け取り方を相手に委ねる限りは、自身の思いが正確に伝わらなくても、一応、雰囲気だけでも感じてくれたらOK牧場よ、と達観しているのか。
そんなんでええんか、松尾芭蕉よ。
俳句は好きでなくとも、心に残る芭蕉の一句はある。もちろん自分なりの解釈をしての上だ。
夏草や兵どもが夢の跡
巷で解釈するところの、奥州平泉の藤原一族の栄華など、私は知らんし、この句からイメージもできない。
夏草とか兵どもという圧倒的な強さが、単純にイメージされる。それが夢の跡と続けば、終わって久しい感じだ。
中学生の夏の頃授業で習ったように記憶しているが、定かではない。
高校の夏休みに、田舎の波止場から伝馬船で渡った無人島で、セイタカアワダチソウの生い茂る中を、小高い丘の頂上へ登ると、そこに小さな祠があった。
その時に私の脳裏に去来したのが芭蕉の例の一句だ。(この辺のくだりは拙著「さらば夏の日1970」に収録<Amazon Kindle Storeにて発売中>)
かつて、この無人島にも人が住んでいて、日々の営みが繰り返されていたのだろうと思い起こされた。
そして今は風雨にさらされた祠が、ひっそりと往時を偲ぶように佇んでいる。
この句にぴったりの情景だと思った次第だ。
青春の入口のそんな思いも、遠い過去の話で、それこそ今にして思えば夢の跡だ。