有名人の愛読書というのがある。
人それぞれであるが、1篇の小説を愛読書として上げているのを見かけると違和感を感じる。
愛読書というからには、それこそボロボロになるくらい、それまでに何度も何度も、読み返しているはずだ。
小説を、それがどんなに感動的な小説であっても、何度も読み返したりするものだろうか。
せいぜい時を隔てて1回か、2回読み返すくらいが限度だろう。
好きな曲を何度も聴く、たとえば、昔レコードが擦り切れるほど聴いたというのはわかる。
しかし、同じ小説を何度も読むというのはあまり聞いたことがない。
小説は音楽と違い、一度読んで筋書きがわかれば、何年か間隔をあけて、筋書きを忘れた頃ならば別だが、そうでなければ再読の興味は薄れ、刺激性は格段に低下するだろう。
聖書や思想書、哲学書や論文などは、その限りではない。
読むたびに新たな発見や解釈が得られるだろうから。
有名人のみなさん、愛読書を問われたら、ありませんと答えるか、聖書とか資本論と答えるべきではないでしょうか。
70年代初頭のミュージック・シーンに突如現れたグラムロック。
その代表格はマーク・ボラン率いるT・レックス。
中性的で金ぴかなコスチュームで奏でるは、当時の骨太のヘビーロックとは一線を画す、シンプルなビートと薄っぺらな電気的なノイジーサウンド。
その近未来的、世紀末的な、かつ嘘っぽく、不定愁訴を醸すようなサウンド。
新しいが、どことなく懐かしさも感じる、他のジャンルとは明らかに異質なサウンドが、当時マーク・トウェインの金ぴか時代や、サリンジャーやフィッツジェラルドに凝っていた私の心の琴線に触れた。
アルバムを買って聴いているうちに感じたのは、決して主流になることはなく、長続きしそうにもない脆さと、刹那的な享楽の悲しみだ。
ロックの過渡期の一種の徒花的サウンドだ。
そんなことは最初からわかりきっているという潔さと、独特の発声で歌いまくるマーク・ボランが狂おしいほど愛おしかった。
そして思ったとおりブームは短命に終わり、マークも29歳の若さで自動車事故により、永遠の20世紀少年になってしまった。
浦沢直樹の「20世紀少年」がマーク・ボランへのオマージュであるとしたら、あれはちょっと違うだろうと言いたい。
昨年末からの年末年始休暇、ゴールデンウイーク、夏休み、9月のシルバーウイーク、年末年始休暇と、9連休から11連休まで今年は大型連休が目白押しだ。
土日、祝日を加えると3日に1回は休んでいる計算だ。
昔は年末年始以外の大型連休は考えづらかった。
仕事が忙しかったし、有給休暇を取ること自体、上司や同僚の手前、気が引けたものだ。
よしんば、取れたとしても、平日にレジャーを楽しむなど、世間の勤労者諸兄に対して申し訳ない気持ちで、罪悪感めいた気分に陥ったものだ。
日本人特有の勤勉を尊ぶ美徳が、有休取得の大きな壁となっていたのだ。
それがいつのころからか、大型連休を取り海外旅行などする若い輩が出てきて、国はそれを奨励し、会社もそれを奨励まではいかなくとも、容認するような風潮になってきた。
そうなると、われわれ企業戦士も有休、連休を取らざるを得なくなり、それに慣れると当初の罪悪感も薄れてきた。
しかしながら仕事が習慣づいている企業戦士は、せっかく連休を取っても、やるべき予定も経済的余裕もなかった。
ただ家でゴロゴロして、女房子供の顰蹙を買うのが関の山だった。
役職定年を過ぎたあたりからは仕事に対する執着も霧散し、連休中にどこへも行かず、何もせずとも、それが悪しきことではないのだという達観を得た。
女房の諦め、子供の成長による価値観の相違は、たそがれオヤジを家庭、家族サービスの呪縛から解き放った。
自由になったたそがれオヤジは、趣味に没頭し、インターネットで懐かしい過去の日々に逃避し入り浸る。
何もせず、金も使わず、文句も言わず、自由な思想や想像の世界に遊ぶ。それもまた楽しからずやだ。