★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

死ということはどういうことだろう

2017年01月31日 20時44分44秒 | 徒然(つれづれ)
 還暦を過ぎ、はや2年が経つ。
 亡くなった両親の寿命から換算すると、あと10年程の命と思われる。
 たったの10年だ。

 そうなると、自分の死というものを、現実として考えざるを得なくなる。
 死というものは不可避であるから、ジタバタしても仕方がない。
 子供の頃、死は恐怖以外の何ものでもなかった。
 成長するに従って、死は遠い将来の事で、何の現実味もなくなり、それについて考える事もなかった。
 それが、還暦を過ぎると、しばしば脳裏に浮かんでくるようになった。

 人間は五感で感じるものを脳内スクリーンに反映し、意識や感情で意味づけをして、生活、延いては人生として記憶する。
 五感で感じるということが、すなわち、人生と極論することも可能だろう。
 死というのは五感、および意識の永遠の消滅といっていいだろう。
 五感の一時的な消滅という点では、死と夢は似ているが、夢には意識は存在している。

 死んで意識が消滅するとは、どんな状態なのだろう。
 それは「無」だとは、よく言われるが、それがどんなものなのかは実感できない。
 実感はできないが体験はできる。
 それは全身麻酔の時だ。

 以前、股関節の置換手術の時に全身麻酔を打たれたが、意識がなくなり、それが戻るまでの体感時間は瞬間だった。
 夢も見なかったように思う。
 その間、1時間20分。
 それが永遠に続くということか。やっぱりイメージできない。

 今まで生きてきて、乳児の時の記憶はないが、幼時のおぼろげな記憶から現在までの記憶は、脳内の海馬に刻まれている。
 世の中や時代というものは、意識の堆積の記憶という形で、自分の中に存在している。
 自分(意識)が消滅するということは、逆に言えば世界が消滅するということにならないか。
 もっと言えば、自分が生まれる前に世界は存在していたのだろうか。
 自分が死んだ後も世界は存在するのだろうか。
コメント
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