★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

真夏の夜の怪談

2021年08月10日 23時02分04秒 | 徒然(つれづれ)
 トイレの便器や洗面台を、いつも汚しては家内に叱責されている。
 汚した時にはトイレットペーパーやティッシュで拭いて、自分なりにはOKサインのつもりでいるのだが、家内の点検はより厳しい。

 今日も歯を磨こうと洗面台の前に立ち、下を見ると髪の毛が落ちていた。
 その細さや長さから、私のではないし、これは家内に指摘してやろうと鬼の首でも取ったような気分になった。

 しかし、待てよ、家内はショートカットのはずだ。
 それにしては落ちている髪の毛は長すぎる。25、6cmくらいはありそうだ。

 目を近づけて見ても、それは確かに髪の毛だ。
 もちろん私のものでも、そして家内のものでもないと思われる。

 久しく家に客を入れたこともない。
 東京の娘が帰省したのも1年以上前だ。

 不思議に思っているその時、一本の髪の毛が風に吹かれたように、ユラユラと私の目の前に落ちてきた。
 背筋に冷たいものを感じ、恐る恐る目を上げて天井を見ると、そ・こ・に・は・・・・・・。


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餃子は王将に優るものなし

2021年08月10日 18時55分23秒 | 徒然(つれづれ)
 オリンピック選手村の食堂の餃子を、外国選手が大絶賛したらしい。
 曰く、こんな美味しい餃子、生まれて初めて食べた。
 生涯で一番の餃子だ。
 これだけで日本に来た甲斐があった。

 しかし、よくよく聞いたら、それはなんと味の素の冷凍餃子だ。
 笑止千万。
 私も過去にその評判を聞いて食べたことがあるが、正直言って、王将の餃子には遠く及ばない。

 外国人の味覚は、はっきり言ってどうかしてるぜ。
 まあ、日頃、餃子など食べる習慣もない彼らだけに、その称賛は話半分に聞くべきだろう。
 
 冷凍というだけで、食欲は萎える。
 それを素人が家庭のガスコンロの火で作るのだから、プロが作る餃子に優るわけがない。

 試しに外国選手に王将の餃子を食べさせたら、それこそ、その絶品の味にひっくり返ることだろう。

 餃子の王将を謳うだけに、その餃子は比類なき旨さだ。
 50年近く、飽きずに食べ続けている私が言うのだから間違いない。

 当然、王将以外の、上手いと言われる餃子も食べている。
 その経験を以って断じている。
 王将の餃子に勝てる餃子があるのなら、ぜひお目にかかってみたいものだ。
 

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ふるさとの話をしよう

2021年08月10日 11時40分33秒 | 徒然(つれづれ)
 私のふるさとは、九州の西の辺境の小さな漁村だった。
 海と山に挟まれた、端から端までは400mほどの細長い土地に民家が密集していた。

 祖父の家は漁師の家系で、私の父親はその家の7人兄妹の三男坊で、漁師を継ぐことなく、小学校の教師となり、本家の近所に世帯を設けていた。
 そこが私の実家だ。

 漁村ということもあり、毎日の食卓には魚介類が並んでいたが、私はそれが嫌いで、おかずはソーセージや卵やふりかけだった。
 家のすぐそばが海だったので、夏休みは毎日泳いでいた。

 波止場の防波堤の内側が小さな港で、中小の漁船が係留されていて、それらを義経の八艘飛びよろしく飛び移って遊んだりした。
 新しい漁船の船おろしの時には、家の棟上げの時と同じように、船から餅撒きが行われた。
 ちいさな紅白の餅の中に、当たりは十円玉や五円玉が入っていた。

 防波堤の外側は砂浜で、そこが子供の僕らの海水浴場だった。
 その砂浜で、春には潮干狩りもできた。
 波止場のまわりには、一面に干し魚が吊るされ、磯の臭いを強烈なものにしていた。

 海に飽きると、野山を駆け巡って遊んだ。
 夏休みの昆虫採集にはもってこいだった。

 僕らの社交場は、観音様前の雑貨屋兼駄菓子屋だった。
 店内のラジオから流れる歌謡曲や大相撲中継を聴きながら過ごしたものだ。

 観音様の階段の前には毎週紙芝居のオッちゃんが来ていた。
 僕らは酢昆布や水飴を食べながら、階段に座って紙芝居を観ていた。

 そんな日々が、子供心に永遠と思われるくらい続いた。
 しかし永遠にも終わりはあるのだ。
 それに気づくのはまさしく歳をとってからだ。

 永遠の終わりとともに、あの懐かしいふるさとの風景も、おぼろげな記憶の中でしか見ることはできなくなった。
 

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アサガオの花

2021年08月10日 11時02分49秒 | 徒然(つれづれ)
 ウォーキングの途中でとある家の前でアサガオを見つけた。
 形ばかりの低い竹の柵に蔓を巻き付け、健気に咲いていた。

 子供の頃、梅雨の前になると、父親が山に細い竹を切りに行き、持ち帰った竹で竹垣を作っていた。
 縁側と塀の間に、軒まで届くほどの高さに細い竹を組み、アサガオとヘチマの種を植える。
 それが毎年夏前の恒例行事だった。

 梅雨が明けて夏休み前には、竹垣一面にアサガオとヘチマは蔓を巻き付け、赤青黄色の花を咲かせる。
 私にとっての夏の花といえば、ヒマワリよりもアサガオだ。
 アサガオの成長記録もつけたし、絵日記にも描いた。

 夏休み中はちょうどいい具合に、茂った葉が遮光すだれの役目を果たしてくれる。
 夏休みが終わり、台風シーズンの前になると、祖母がヘチマの実を刈り、日光に干して乾かし、台所の流しや風呂のスポンジ代わりにしていた。
 アサガオの種は来年用に保存していた。

 そんな情緒的な夏の風物詩も、昨今はとんと見かけなくなった。
 久しぶりに見かけたアサガオの花を、私はしばし座って眺めていた。


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