★★たそがれジョージの些事彩彩★★

時の過ぎゆくままに忘れ去られていく日々の些事を、気の向くままに記しています。

『レット・イット・ビー』を見たかい

2024年08月16日 08時22分18秒 | 徒然(つれづれ)
『レット・イット・ビー』を田舎の映画館で観たのは、1970年の秋、高校1年の時だ。
 田舎では、映画が庶民の娯楽としての地位を、かろうじて死守していた時期だ。

 バンドの絶頂期の映画ならともかく、解散後のバンドの終焉期を振り返る映画は珍しい。 
 私は高校のビートルズ同好の士の同級生とふたりで観に行った。

 当時、九州の辺境の町にも映画館は3館あった。
 そのうちのひとつで『レット・イット・ビー』は上映された。

 入り口の上の大看板には、レコードジャケットと同じ絵が描かれていた。
 その頃はまだ映画の看板描き専門の職人がいたのだ。

 映画のポスターも何枚も貼られ、掲示板にはスチル写真も多数飾ってあった。
 関係者にビートルズファンがいたのか、そこだけが、殺風景な田舎町には不似合いな雰囲気を漂わせていた。

 ビートルズと九州の辺境の田舎町、交わることのない取り合わせを目にして、私は複雑な気分になった。
 こんな田舎町に、映画とはいえ、ビートルズがやって来た嬉しさと、ビートルズのファンでもない、田舎町のオッチャンやオバチャン、兄チャン、姉チャンも物見遊山で観に来るのかと思うと、ビートルズに申し訳ないような気もした。

 館内に入ると、案の定、8割方埋まった客席の半分はそんな年輩の観客だった。
 クレージーキャッツやドリフターズと同じような、コミックバンドの映画と勘違いしているんじゃないか、とさえ思った。
 
 それはともかく、私は、演奏はもちろん、動いて喋って笑ったりするビートルズを観られるというだけで、胸をときめかせていた。
 解散の経緯は、諸説、音楽雑誌や平凡パンチなどで頭に入っていたが、この映画こそが、それらの信憑性のカギになると思っていた。
 
 延々と続くドキュメンタリー調のシーンは、田舎の庶民にとっては退屈そのものだったようだ。
 途中で退席するオッチャン、オバチャンも少なくなかった。

 映画の内容に関しては、ここで多くを語る必要もないだろう。
 全編に流れる通奏低音のようなざわめきと、不協和音のようなメンバー間の会話が、偉大なグループの崩壊の兆しを如実に物語っていた。
 クライマックスのルーフトップコンサートに、消える間際のロウソクの輝きのような、終わりを悟ったメンバーの最後の結束を見た。

 今では『レット・イット・ビー』は記憶のフォルダーの中で、モノクロのファイルとなって眠っている。
 昭和が遠くなるに伴い、田舎町は寂れる一方で、映画館もすべて閉館してしまった。


ビートルズのジョージ、ストーンズのキース。どちらもヘタウマギタリストだ。キースに至っては、歳をとってその素人顔負けのヘタさに、磨きがかかってきた気もする。でも、そのサウンドには、他のギタリストには出せない独特な味わいがあるんだよね。 そんな味わいの小説を、Amazon Kindle Storeに30数冊アップしています。★★ 拙著電子書籍ラインナップ・ここから、またはプロフィールのQRコードから買えます。
 読後のカスタマーレビューをいただけたら幸いです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする