かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

歴史の新説というのはわくわくするものが多いです。

2013-07-26 22:12:03 | Weblog
 今日は暑い中仕事で京都へ行きました。一仕事終えた後、仕事先の人と河原町四条のビヤホール「ミュンヘン」で飲んだドイツ・ビールのうまかった事! そのせいかいつもの倍くらい飲んでしまい、帰りは電車で立って帰るのが耐えられず、有料の特急に乗って約1時間爆睡してしまいました。暑い日のビールはやはりいいものですね。

 さて、戦国時代、小田原城を攻め落とし後北条5代の礎を築いた武将北条早雲が城攻めに用いたとされる「火牛の計」、実はそれは、地震で生じた津波だったのではないか、という新説が、伊東市の編纂した歴史書で公表されたそうです。なんでも、当時の伊豆半島周辺は、相模トラフを震源とする関東地震と南海トラフ震源の東海地震が短い間隔で相次いで発生したとみられ、市内の遺跡の発掘調査でも、中世の地層から津波の堆積物とみられるものが見つかったのだそうです。資料では、1495年8月15日の鎌倉大地震で、大仏まで津波が襲来した、という記録があるとの事で、遺跡の堆積物もその時のものだろうと推測されているそうです。
 これらの調査から、相模湾沿岸の津波被害は甚大なものがあり、「謎の多かった早雲の小田原奪取という歴史的な大事件も、津波襲来という大自然の猛威が、そうした展開をもたらしたとみられる」との見解をまとめたとの事でした。このように、歴史的な政変と天災を絡めて語る歴史研究はこれまであまり例がないようで、更なる研究の積み重ねが必要なようです。
 たくさんの牛の角にたいまつを結びつけて敵陣に突っ込ませるという「火牛の計」は、平家物語に木曾義仲の戦術として出てきますし、中国にもその先例があるので、北条早雲のそれは史実というよりは過去のそう言った例を利用した講談的創作だろうと思われますが、それを含めて、早雲の小田原城乗っ取りについては謎が多いのだそうです。今回の津波による混乱に乗じて攻めたという話はなるほど、と理解しやすい反面、本当にそうだったかどうかを裏付けるのは、同時代の記録でも出てこない限りかなり難しいんじゃないかとも思います。まあそれをひとつひとつ丹念に掘り起こして断片的な情報を集め、組み上げるのが歴史の醍醐味でもあるので、そう言った新説が出てくること自体が研究の活性化に役立つ刺激なのでしょうね。先端科学を駆使した新しい考古学と歴史学的な調査が照らし合わされて歴史の真実があぶり出されるようなわくわくする成果を、これからも期待したいです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする