芥川龍之介氏は「或旧友へ送る手記」で、ご自分の自殺に対する考えをまとめられています。その中で「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。君は或は僕の言葉を信用することは出来ないであらう。しかし十年間の僕の経験は僕に近い人々の僕に近い境遇にゐない限り、僕の言葉は風の中の歌のやうに消えることを教へてゐる。」と表現されているのですが、このような心境に至っている人は、今の時代、潜在的に相当いらっしゃるように思います。
自分が見たり、聞いたり、感じたり、考えたり、、そういうことが重なりあって、自分の中にぼうっと浮かび上がる不安。それは説明しづらく、また、自分にも社会にもそのような思いを感じるとき、人はどこに居場所を探すのか考えるのでしょうか。そのことによる孤独感につながる思いは後半部に表れていると思いますが、無常ともいえる感覚の中にいる人を支えるにはどのようなことがあるのでしょうか。
今の自分のように政治に関わる存在は、こうしたぼんやりとした不安をどう考えるのか、そもそも“ぼんやりとした不安”の存在を認めることからが、取り組みのスタートなのだと思います。
バブル以降の約30年、新型コロナが流行し始めてからの約3年も、経済の側面、成長といった部分から政策が語られ、その中で手当の拡充や貧困対策などをはじめとして福祉政策に取り組まれていますが、課題はなくなるどころかより細分化したり、また目につくことが増えていると考えます。語られる方向性と現実との乖離があるとき、どのような施策が行われるとしても、“ぼんやりとした不安”に覆われたままのように考えます。
不安の中で生きる方々、最前線で取り組まれる方々を支援する施策を考えることは大切です。一方で、政治に求められることは、課題が起こる背景や本質的な原因はなにか、そこを考え社会の仕組みを修正することだと思います。そのとき、人間の存在とその価値を深く見つめて政策を考えることが大切な時代に入っている、と考えます。
しかし、政治家にとって選挙があまりに大きくなりすぎてしまい、目の前の成果やパフォーマンスにとらわれていないか、考えて議論する余地をなくしていないか、それなのに息苦しく不安の中にいつもいるような社会を変えられるのか、閉塞感を伴って自分も考えてしまいます。
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