Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

家族の灯り

2014年02月24日 | 映画
 ポルトガルの映画監督マノエル・ド・オリヴェイラの「家族の灯り」が公開中だ。オリヴェイラは1908年生まれ。今は105歳だが、現役の映画監督だ。「家族の灯り」は2012年の作品。当時104歳の映画監督がどういう映画を作ったか。

 日本的な感覚では、だれでも高齢になると、枯れてくると思わないだろうか。枯淡の境地とか――。だが、この作品はちがっていた。最後にある事件が起きる。そのインパクトは強かった。息詰まるような緊張感があった。日本なら事件が起きるようで起きないとか、なにか起きても、淡々と描かれ、人々はそれを受け入れて、変わらない日常を送るとかで収束しないだろうか。

 これはやはり西洋人と日本人のちがいだろうかと思った。精神的・肉体的なちがいがあるのではないだろうか。

 もう一つ、この映画の見所だった点は、俳優たちのキャスティングだ。主人公の老人にはマイケル・ロンズデール(1931‐)、その妻にはクラウディア・カルディナーレ(1938‐)、近所の老婦人にはジャンヌ・モロー(1928‐)。皆さん、すごい存在感だ。いずれ劣らぬ名優たちの、70代、80代になった今の、怖いものなしのパワーが圧倒的だ。皆さん、演技を楽しんでいるのではないか。それがスクリーンから感じられた。

 場所はフランスの港町。貧しい人々が住む一画。老人と妻と嫁の3人暮らし。息子は8年前に失踪した。ところが、ある日突然、息子が戻ってくる。息子は貧しい生活に忍従する父(老人)をなじる。そして息子はある事件を起こす。

 原作はポルトガルの作家ラウル・ブランダン(1867‐1930)の戯曲だ。プログラムを読んで、なるほど、そうかと思った。たしかに、台詞主体の会話劇なので、映画というよりも、演劇に近い。しかも、興味深いことに、原作は4幕構成だが、最終幕をカットして、3幕までで終わりにしたそうだ。唐突な、断ち切られるような終わり方は、そのせいかと思った。

 そのラストシーンにあるクラシック音楽が使われている。絶妙な選択だ。奇妙な、しかし不思議な余韻を残すその音楽は、このシーンにぴったりだった。

 だが、冒頭に使われている音楽は、いただけなかった。クラシック音楽好きなら多くの人が知っているその音楽は、雄弁で、それ自体のストーリーをもっているので、映画と溶け合わず、ぶつかり合っている感じがした。
(2014.2.20.岩波ホール)
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鉄くず拾いの物語

2014年01月19日 | 映画
 映画「鉄くず拾いの物語」。ボスニア・ヘルツェゴヴィナのロマの物語。夫ナジフは鉄くず拾いで生計を立てている。妻セナダは家事の一切を切りまわしている。かれらには2人の子どもがいる。貧しいながらも幸せな暮らしだ。セナダは身ごもっている。ある日、セナダは腹痛を訴える。普通の痛さではない。流産だ。手術をしないと命にかかわる。だが、保険証がない。お金もない。ナジフは八方手を尽くすが――。

 もしわたしだったらどうするだろう、と思った。真っ先に浮かんだのは、犯罪をおかすのではないか、ということだ。もちろん、わたしにそんなことができるはずもない。では、ほかにどうしたらいいんだ、とも思った。

 ナジフはそんなことは考えずに、懸命にあらゆるツテを頼っていく。立派だなと思った。かりに犯罪などおかしたら、万が一それに成功したとしても、家族は崩壊してしまうだろう。

 ナジフは親類の助力を得て、あまり大っぴらにはいえない方法で、このピンチを切り抜ける。家族にもとの日常が戻ってくる。貧しいが幸せな暮らし。短絡的な行動をとらなかったおかげだ。

 観終わって、暖かいものが残る映画だ。人間の一番大事なことを教えてくれる。これは実話だ。2011年に起きて、現地の新聞に報道された。それを読んだダニス・タノヴィッチ監督が当人と会い、――驚くべきことに――当人を使って映画にした。

 保険証がない、お金もない、なので、医療にかかれない、という現実は、今の日本にもありそうだ。ある医療ジャーナリストが「これは遠い国の物語ではない! 既に、この国でも起きている現実だ」とコメントしている。そういう現実をどうするか、という問題とあわせて、当事者になった場合を考えると、なんとも心寒い思いがした。

 2人の子どもが可愛い。妻(=母)セナダは命が危ないのだが、子どもたちは、そんなことにはお構いなく、セナダに甘え、ナジフに甘える。愛情たっぷりに育てられている。お金はなくて貧しいが、子どもたちは幸せそうだ。きっと立派に育つだろう。大人になってもロマにたいする差別はなくなっていないかもしれないが、それに耐えて人間として立派に生きるにちがいない。

 ナジフの家は雑然とした環境のなかにある。でも、家のなかはこざっぱりしている。これがロマの人々の一般的な暮らしらしい。そんなことも教えられた。
(2014.1.17.新宿武蔵野館)

↓予告編
http://www.youtube.com/watch?v=bFvMJ7pBTQI
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ハンナ・アーレント

2013年11月06日 | 映画
 映画「ハンナ・アーレント」を観た。平日の夜間に行ったけれども、けっこう人が入っていた。それだけ皆さんの関心が高いのだろう。

 ハンナ・アーレント(1906‐1975)はドイツ生まれのユダヤ人女性。ナチスに追われてフランスの強制収容所に入れられたが、そこを脱出して、アメリカに逃れた。戦後、執筆活動を精力的に行い、今では20世紀の傑出した政治哲学者といわれている。

 この映画はアーレントが1961年のルドルフ・アイヒマン裁判の傍聴記を書いた前後を描いている。アイヒマン(1906‐1962)はナチスのなかでユダヤ人の強制収容所への移送の責任者だった。戦後、アルゼンチンに潜伏したが、1960年にイスラエルの情報機関(モサド)に捕えられ、1961年に裁判にかけられ、翌年絞首刑になった。

 アーレントはその裁判の傍聴記を書いた。邦訳も出ているので(「イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告」みすず書房)、できれば事前に読んでから行きたかったが、残念ながらそれはできなかった。

 でも、本を読んでいなくても、この映画は十分楽しめた。アーレントはまず雑誌ザ・ニューヨーカーに傍聴記を連載し、さらに単行本にした。当時それがユダヤ人社会にどのような騒動を巻き起こしたか――を描いた映画が本作だ。

 今では歴史的事実として知られているユダヤ人評議会(ユーデンラート)の存在、そしてその役割(ナチスへの協力)は、アイヒマン裁判で明らかになったようだ(当然、知る人ぞ知る存在だったのだろうが、アイヒマン裁判で一般に知られるところとなった)。その事実に衝撃を受けたアーレントは傍聴記に書いた。これがユダヤ人社会の反感を買った。

 もう一つはアイヒマンを「悪の凡庸さ(陳腐さ)」と捉えたことだ。アイヒマンは上層部の命令に従っただけで、自らの意思で行ったのではない、自ら思考することを止め、命令のままに動くことが、過去に例のない巨大な悪を生んだと。でも、これもユダヤ人社会の反感を買った。アイヒマンを悪魔、怪物として描くことを期待していたからだ。

 命令に従っただけだ――そうだとすると、わたし自身も同じことをやりかねない、そんな危うさがある。アイヒマンを批判すれば済む話ではない。

 わたしは、自ら思考することによって、踏みとどまることができるか――、そう考えさせられる映画だ。
(2013.11.5.岩波ホール)

↓予告編
http://www.youtube.com/watch?v=WOZ1JglJL78
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ピロスマニ

2013年09月13日 | 映画
 シネマヴェーラ渋谷で開催中のロシア映画傑作選。そのチラシに「ピロスマニ」を見つけたときには、アッと思った。グルジアの画家ピロスマニの生涯を描いた映画があることは知っていたが、古い映画なので、観る機会はないものと思っていた。

 ピロスマニPirosmani(1862‐1918)、グルジアの首都トビリシで貧しい生涯を送った画家。素朴で温かみのある絵を描いた。芸術のためというよりも、日々の食事代と酒代のため。それらの絵は居酒屋の壁を飾った。また看板も描いた。一時期、トビリシの街にはピロスマニの絵が溢れたそうだ。

 日本には2008年の「青春のロシア・アヴァンギャルド展」でまとまった点数が来た。わたしはそれで注目した。ロシアの前衛画家マレーヴィチが目玉だったが、後々まで気になる画家はピロスマニだった。

 じつは以前からピロスマニのことは知っていた、絵で知るよりも先に歌で。加藤登紀子が歌った「100万本のバラ」はピロスマニがモデルだ。ある貧しい画家が旅回りの踊り子に恋をする。画家はありったけのお金でバラを買い集め、踊り子の泊まっているホテルの前に並べる。窓の外を見て驚く踊り子。木の陰からそっと見ている画家。踊り子は夜汽車で去っていく。画家は思う、バラのことはきっと覚えていてくれるはずだと。

 もっともこの話は、真偽のほどは定かではないらしい。多分に脚色が入っている伝説的なものらしい。そうかもしれないが、人々がピロスマニに投影したいロマンが反映されていることはたしかだ。

 映画「ピロスマニ」にはこの話は出てこなかった。その一事をとっても、この映画が商業主義的なものではなく、ピロスマニにたいする敬意に裏打ちされた誠実なものであることがうかがわれた。

 映画は淡々とピロスマニの生涯をたどる。多くの場面にピロスマニの絵が何気なく置かれ、またピロスマニの絵でお馴染みの情景が下敷きになっていることも多かった。1969年のカラー映画なので、さすがに少々古臭いが、その古臭い色がピロスマニの絵に相応しいといえなくもなかった。

 二本立ての上映だったので、もう一本「田園詩」も観た。グルジアの名匠イオセリアーニ監督の若いころの作品。さすがに技巧的で、みずみずしい感性に溢れている。これは傑作だと思った。1975年の作品だが白黒、その白黒の映像が、ため息が出るほど美しかった。
(2013.9.11.シネマヴェーラ渋谷)

↓ピロスマニの絵
http://www.pirosmani.org/marias/

↓「放浪の画家ニコ・ピロスマニ」
http://www.fuzambo-intl.com/index.php?main_page=product_info&cPath=11&products_id=146
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楽園からの旅人

2013年08月30日 | 映画
 岩波ホールで公開中の映画「楽園からの旅人」。これはぜひ観たいと思って、前々から日程を調整していた。直前に公式ホームページをのぞいたら、音楽はグバイドゥーリナとあった。えっ、思わず息をのんだ。グバイドゥーリナって、あのグバイドゥーリナ? 俄然音楽にたいする興味がわいてきた。

 考えてみれば当然だが、グバイドゥーリナがこの映画のために書き下ろしたわけではなかった。もう高齢なのだから、それは当然だ。実際には既存の曲から断片的にとられていた。それはそうなのだが、さすがはグバイドゥーリナというか、断片ではあっても、はっきり個性を主張していた。一般的な映画音楽とは一線を画していた。

 そのため、困ったこともあった。音楽が始まると、どうしても聴いてしまうのだ。注意が音楽に向いてしまった。感性の繊毛がふるえるような音楽だと思った。じっと聴いていると、映画がおろそかになる危険を感じた。

 久しぶりに聴くグバイドゥーリナだった。映画が終わった後も耳に残った。もう一度聴いてみたくて、翌日の夜、映画のなかで使われている「プロ・エト・コントラ」PRO ET CONTRAを聴いた(ヨハネス・カリツケ指揮ハノーファー北ドイツ放送フィル)。30分あまりのオーケストラ曲だ。実に美しい曲だと思った。グバイドゥーリナのなかでも特別な曲ではないだろうか。ほかのどの曲とも似ていなかった。

 思いがけず音楽にのめり込んでしまったが、肝心の映画もよかった。イタリアの片田舎の話。信者が来なくなって廃止された教会。そこにアフリカからの難民(=不法入国者)が逃れてくる。かれらをかくまう老司祭。そこで起きる出来事がこの映画だ。

 教会のなかは難民キャンプのようになる。旧約聖書の「出エジプト記」を連想させる。身重な女性が出産する。イエスの誕生のようだ。感動した老司祭は神に感謝する。また仲間を売る男がいる。ユダを連想させる。難民たちは立ち去る。新たなイエスの物語が生まれるのだろうか――。

 一言でいって、これは慎ましい映画だ。場面はすべて教会のなかか、司祭館のなかだ。なので、演劇のような感じがする。映画というよりも、演劇を観ているようだ。

 そう思った一因は、教会がヨーロッパの古い石造り、または木造ではなく、無機質で近代的なコンクリート造りだからだ。それが演劇の舞台のように見えた。たぶん意図してのことだろう。
(2013.8.28.岩波ホール)
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25年目の弦楽四重奏

2013年08月12日 | 映画
 ロングラン上映中の映画「25年目の弦楽四重奏」。前から気になっていたが、グズグズしていたら友人から推薦された。背中を押されるようにして観に行った。

 ある弦楽四重奏団の話。25年間演奏活動を続けてきたが、最年長のチェロ奏者が初期のパーキンソン病と診断され、引退を決意する。それを機に揺れる他の3人。今まで封印してきた個人的な感情も噴き出し、崩壊の危機にさらされる。

 濃密な映画だ。4人それぞれの個性が明確に描かれ、さらにそれらの絡み合い(=葛藤)も克明だ。弦楽四重奏の4本の線の絡み合いに似ている、といえなくもない。そういえば、4人の個性も弦楽四重奏の各パートの性格に似ている。第1ヴァイオリンは冷徹に演奏を引っ張る。第2ヴァイオリンは陰影や揺れを添える。ヴィオラは両者に寄り添う。チェロは全体を支える。もちろん実際には各パートの性格、あるいは力学はさまざまだろうが、その最大公約数が捉えられている。

 彼らが演奏しようとする曲はベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調作品131。この映画にはこの曲しかないという感じだ。他の曲だったら――それがモーツァルトであれハイドンであれ――この映画は成立しなかったろう、とさえ思う。ベートーヴェン最晩年の曲。「深遠な」とか「哲学的な」とかいう言葉さえ一面的な気がする曲。シューベルトやストラヴィンスキーの心を捉えた曲だ。

 映画のなかではブレンターノ弦楽四重奏団が演奏している。

 個人的な思い出になるが、少しだけ脇道に入らせてもらうと、まだ大学生だったころ――今から40年も前のことだ――クラスの友人がこの曲のレコードを貸してくれた。ブッシュ弦楽四重奏団の演奏、SPレコードの復刻版だった。それを聴いたときの衝撃が忘れられない。今まで経験したことのない深さだった。それ以来どの演奏を聴いても、ブッシュ弦楽四重奏団には及ばないと思った。

 正直な話、もう他の演奏は諦めていた。でも、ブレンターノ弦楽四重奏団はいいかもしれない。現代的な若々しさがあったような気がする。

 ラストシーンにブレンターノ弦楽四重奏団のチェロ奏者が登場する。その演奏はものすごい迫力だ。もう一人、チェロ奏者の亡くなった妻の役でアンネ=ゾフィー・フォン・オッターが登場している。じつは俳優が演じて、だれかが吹き替えをやっているのだろうと思っていた。さすがに絵になる。
(2013.8.9.角川シネマ有楽町)
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三姉妹~雲南の子

2013年07月05日 | 映画
 映画「三姉妹~雲南の子」。中国雲南省の高地に住む三姉妹のドキュメンタリー。監督は王兵(ワン・ビン)氏、1967年生まれ。

 高地といっても、半端ではない。そこは海抜3200メートル。森林限界を超えている。ただし日本で想像するような岩稜地帯ではない。草が生えている。その草で羊や豚を飼って暮らす人々がいる。約80戸の村がある。中国の経済的な発展から取り残された村。貧しい村。その村のなかでも三姉妹の生活は極貧のほうだ。

 三姉妹は、10歳の英英(インイン)、6歳の珍珍(チェンチェン)、4歳の粉粉(フェンフェン)。母は家出をしてしまった。父は町に出稼ぎに行っている。なので、三姉妹だけで暮らしている。長女のインインが下の二人の面倒を見ている。インインは朝から晩まで働き詰めだ。10歳にして、恥ずかしながらわたしよりも、ずっと働いている。

 インインは人生のすべてを受け入れている。母がいなくなったことも、父が子供を残して出稼ぎに行っていることも、そして何よりも生活の貧しさも。

 父はいったん帰ってくる。三姉妹は大喜び。だが、父はまた出稼ぎに行くという。今度は下の二人を連れて。三人とも連れて行くことは、経済的にできない。インインはそんな現実を黙って受け入れる。フェンフェンのシラミをとってやる。丁寧にとってやる。別れの前の心配りだろうか。

 でも、やがて、父は帰ってくる。町での生活がうまくいかなかったのだろう。今度は子守り女とその連れ子を連れて。インインはその現実も受け入れる。受け入れるしかない。黙って受け入れる。

 そんなインインの姿に人生そのものを見た気がする。人生の何たるかを教えられた気がする。

 インインは10歳。あと5年もすれば嫁に行くだろう。嫁に行った先でも、働き詰めの生活が待っているだろう。インインの人生はよくならないかもしれない。悔しさもあるだろう、悲しさもあるだろう、けれどもそんな感情はぐっと飲み込んで、黙って生きていくだろう――と思った。

 ラストシーン、見渡すかぎり山また山の山道を行くインインが、崇高に見えた。そこには何か犯しがたいものがあった――それを何といったらいいだろう、威厳という言葉ではちがうような気がする、平たくいえば自立心か、ともかく安易な同情や援助を受け付けない、そんな生き方というか――。
(2013.7.4.シアター・イメージフォーラム)

↓予告編
http://www.youtube.com/watch?v=11a65y1efPM
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旅立ちの島唄~十五の春~

2013年06月14日 | 映画
 映画「旅立ちの島唄~十五の春~」を観た。南大東島の話。正直いって、南大東島といわれても、台風情報のときに登場する島、というくらいの認識しかなかった。申し訳ない話だが。

 南大東島は沖縄本島から東に360㎞ほど離れている。360㎞というと、東京から名古屋までの距離に相当する。JRの場合は線路の延長だが、南大東島は直線距離だ。どれくらい離れているか、想像がつくというものだ。

 南大東島には高校がない。島の子供たちは中学を卒業すると、島を出る。多くの場合は沖縄本島に行くようだ。この映画はそんな子供たちの一人、優奈の物語。優奈は中学3年生。卒業までの一年間、多感な日々を過ごす。初恋もする。両親の離婚も経験する。大人たちの世界を垣間見る。そして迎える卒業の日、優奈は確実に成長している。

 卒業式を終えた優奈は、所属する島唄グループ「ボロジノ娘」のコンサートに出る。島民たちが集まってくる。毎年恒例の行事だ。優奈は別れの唄「アバヨーイ」(さよなら)を歌う。師匠の教えのとおり、泣かずに歌う。「ボロジノ娘」は後輩に引き継がれる。

 「ボロジノ娘」は実在のグループだそうだ。新垣則夫という方が指導している。島唄を教え、三線(さんしん)を教える。映画に出てくる師匠は、新垣氏ご本人だろう。

 島唄――。島唄には想い出がある。何年か前に奄美大島を旅したとき、夜、居酒屋へ行った。島唄を聴かせてくれる店だった。ご主人が興に任せて歌ってくれた。店の一角には何種類もの焼酎(奄美群島特産の黒糖焼酎)が用意されていた。我々お客は各自好きな焼酎を飲みながら、島唄に耳を傾けた。

 ご主人は奄美の島唄と琉球民謡のちがいを教えてくれた。たしかにちがっていた。今それを言葉で説明することはできないが。それと同時に、琉球王国に支配され、またあるときは薩摩藩に支配されて、苦難の歴史をたどった奄美群島の歩みを語ってくれた。

 大東諸島の歴史はまたちがう。大東諸島は無人島だった。1900年、最初の開拓団が入った。八丈島から来た23人だった。大東諸島の歴史はそこから始まる。そんな大東諸島の島唄と、奄美や琉球の唄・民謡とは、どんな影響関係にあるのだろう。

 映画で優奈を演じたのは三吉彩花。1996年生まれ。まだ10代だが、美しく、しかも存在感がある。将来、大輪の花を咲かせてほしいものだ。
(2013.6.12.シネスイッチ銀座)
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カルテット!人生のオペラハウス

2013年05月14日 | 映画
 映画「カルテット!人生のオペラハウス」を観た。イギリスの引退した音楽家のための老人ホームでの話。ヴェルディが私財を投じてミラノに建てた「音楽家のための憩いの家」がモデルだ。

 ヴェルディの憩いの家は何年か前にNHKテレビで報道された。普段はテレビを見ない生活だが、このときはたまたま旅先で見た。ヴェルディはこんなことをしていたのか、いかにもヴェルディらしいな、と思った。功成り名遂げたヴェルディが、引退して困窮している音楽家のために、自分にできることとして、老人ホームを建てた。すべてを救うことはできないが、せめてできる範囲で、と。

 憩いの家は今も健在だが、この映画では、経営に行き詰まり、その打開のために入居者の老人たちが演奏会を計画する。開催にこぎつけるまでの紆余曲折がユーモアたっぷりに描かれる。

 元プリマドンナのソプラノ歌手ジーン、認知症が始まったアルト歌手シシー、過去に9時間だけジーンと結婚していたテノール歌手レジー、老いてなお色気たっぷりのバリトン歌手ウィルフ。この4人がヴェルディの「リゴレット」からの四重唱(カルテット)を歌うまでの紆余曲折。

 ジーンは過去の栄光にとらわれて、入居者たちとは打ち解けない。昔別れたレジーとのわだかまりもある。そんなジーンが次第に自分の「今」を受け入れる物語でもある。

 演奏会の日、いよいよ出番というその時、シシーの認知症が始まる。「お母さんに呼ばれたから帰る」というのだ。途方に暮れる男性2人。そのときジーンがシシーの肩を抱いて優しくいう、「そうね、帰りましょう」
シシー「バッグも持って行っていいの?」
ジーン「もちろんよ」
シシー「あの大きいのよ」
ジーン「そうよ。でも、帰るのは2週間後なのよ」
シシーは笑顔になってステージに向かう。

 ジーンは成長したのだ。人間いくつになっても成長するのだ。実はこれは小さなエピソードで、本筋ではもう一つのストーリーが進行しているが、それは観てのお楽しみ。

 4人の前に歌う元ソプラノ歌手がいる。ジーンがライバル意識をむき出しにするその歌手は、歌い始めると、すばらしい声。ジーンは思わず息をのむ。往年の名歌手ギネス・ジョーンズだ。1936年生まれだから制作時点で76歳くらいだが、すごい声だ。これがギネス・ジョーンズの「今」なのだろうか。感動的だ。これだけでも感動ものだ。
(2013.5.13.Bunkamuraル・シネマ)
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遺体 明日への十日間

2013年03月11日 | 映画
 東京では先週後半から暖かい日が続いていた。今年も3.11が近づくなかで、あの日はあんなに寒かったのに、と思っていたら、昨日の夕方から急に寒くなった。3.11を迎えるにあたって相応しい気がした。

 寒くなった都心のビル街を抜けて、映画「遺体 明日への十日間」を観にいった。今年の3.11をどのように迎えようかと思っていたところ、朝のラジオでこの映画の君塚監督のインタビュー番組を聞いて、「そうだ、これを観て3.11を迎えよう」と思ったからだ。

 震災直後の岩手県釜石市。廃校の体育館が遺体安置所にあてられる。被害がどの程度なのか、まったくつかめない状況のなかで、汚泥にまみれた遺体が次々と運び込まれる。いったいどこまで増えるのか。ビニールシートを敷いた体育館の床は汚泥の山になる。

 市役所から派遣された担当職員も、なにをどうしたらいいか、途方に暮れる。みんな苛立っている。あちこちで怒声が聞こえる。そんな状況のなかで、民生委員をしている男が訪れる。その惨状を見て息をのむ。男はひざまずき、遺体に声をかける、「寒かったでしょう、大変だったね」。その様子を見ているうちに、人々の苛立ちは消え、やがて自分にできることを始める。

 本作は、津波で亡くなった多くのかたに捧げる鎮魂の映画であるとともに、――プログラム誌上で何人ものかたが指摘しているように――日本人の死生観を描いた映画であり、さらにいえば、途方もない災害に遭遇して自分を見失った人々が、少しずつ人間性を回復していく再生の物語でもある。

 原作は石井光太のノンフィクション「遺体 震災、津波の果てに」(新潮社刊)。なので、これはフィクションではなく、事実にもとづいた映画だが、ドキュメンタリーではない。脚本・監督の君塚良一、主演の西田敏行、その他すべてのキャスト・スタッフの想いが込められた作品だ。

 震災直後には何本かのドキュメンタリーが作られた。今後も「その後」のドキュメンタリーは作られるだろう。だが、いつかはフィクションの形で、震災で起きたことを語る作品が生まれるはずだと思っていた。本作はその嚆矢となる一作だ。

 日曜日の夜だったせいか、観客はけっして多くはなかった。その多くはない観客の大部分は、若い人たちだった。若い人たちがこの映画を観て、涙をぬぐい、終了後もなかなか立ち上がろうとはしなかった。
(2013.3.10.有楽町スバル座)

↓予告編
http://www.youtube.com/watch?v=nkjdyNAkhLY
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塀の中のジュリアス・シーザー

2013年03月01日 | 映画
 映画「塀の中のジュリアス・シーザー」を観た。シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」を刑務所の中で、本物の受刑者たちが演じるというもの。特異な設定なので、まずその説明から。

 ローマ近郊のレビッビア刑務所では、受刑者の更生プログラムとして、演劇実習を取り入れている。プロの演出家の指導を受け、刑務所内の劇場で(この刑務所には劇場がある!)、一般の観客を招いて公演する。日本では考えにくいが、以上は事実だ。

 今年の演目は「ジュリアス・シーザー」。受刑者たちのオーディションが始まり、出演者が決まる。台本が配られ、独房で、廊下で、階段で、図書室で、そしてまた中庭で、稽古が進む――ドキュメンタリーのようだが、これはフィクションだ。もっともフィクションと現実との境目ははっきりしない。どこからどこまでがフィクションで、どの部分は撮影の過程で起きたハプニングなのか――。

 フィクションと現実との絡み合いがこの映画だ――と、まずはいえる。ひじょうに知的な、創意あふれる映画作りだ。

 そして一面では、シェイクスピアの戯曲の、きわめてユニークな脚色でもある。大胆にカットされた、男だけのシェイクスピア劇(女性が登場しないのは、刑務所であるがゆえの制約かもしれない)。ディテールを削ぎ落とした、求心的な展開。端的にいって、演劇的にも面白かった。これに比べると、どんな劇場の上演でも、どこか嘘っぽく感じられるのではないかと思ったほどだ。

 監督・脚本はタヴィアーニ兄弟。兄弟ともに制作時点で80歳を超えていた。が、80歳を超えた人が作った映画とはとても思えない。若々しく、生き生きした精神が感じられる。日本人は、80歳を超えたら、もっと穏健な、もしくは枯れた作風になるのではないだろうか。日本人と西洋人(この場合はイタリア人)とは、フィジカル・メンタルの両面で、そうとうちがうようだ。

 俳優ではブルータス(シーザーの台詞「ブルータス、お前もか」のブルータス)を演じた人の繊細な演技に注目した。実はこの人だけは現役(?)の受刑者ではなく、元受刑者だった。刑期の途中で減刑になり、出所後、プロの俳優になったそうだ。ラストシーン――公演が終わって、カーテンコールの場面――での、破顔一笑、くったくのない笑顔は、別人のようだった。これもまた演技だから驚く。
(2013.2.26.銀座テアトルシネマ)

↓予告編
http://www.youtube.com/watch?v=AtM59aG7UA8
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最初の人間

2013年01月16日 | 映画
 映画「最初の人間」。アルベール・カミュの遺稿が原作だ。そういう作品があるとは知らなかった。

 カミュは1960年に自動車事故で亡くなった。46歳、まだ若かった。現場近くの泥のなかに黒皮のカバンが落ちていた。「最初の人間」の草稿が入っていた。自伝的小説だ。もちろん未完。当時、遺族は出版を望まなかった。年を経て、1994年に出版された。世界的に話題となった。日本語訳も出版された――ということを、今回初めて知った。

 この映画がどの程度原作に沿っているかは、未読なので、わからないし、自伝的小説といっても、どの程度実人生に沿ったものかは、判然としないので、この映画の主人公コルムリが、カミュその人であると思い込むことは、リスクがあると思う。むしろカミュを離れて、ある種の人間の典型として、この映画を観るほうが適当かもしれない。

 時は1957年。成功した作家コルムリが、生まれ故郷アルジェリアを訪れる。大学で講演をするためだ。時あたかもアルジェリア戦争(アルジェリアのフランスからの独立戦争)の真っただ中。アルジェリア人とフランス人の共存を訴えるコルムリは、独立阻止に躍起のフランス人たちの怒号を浴びる。

 翌日、コルムリは現地で一人暮らしを続ける母を訪ねる。久しぶりの再会。母の家のベッドに身を横たえたコルムリは、子ども時代(1924年)を回想する。以降、映画は、現在(1957年)と過去(1924年)を行ったり来たりする。

 コルムリは孤立している。そんなコルムリが、過去を回想することによって――あるいは過去につながる人々を訪れることによって――自分探しの旅をする。この二つの要素、「孤立」した状況と「自分探し」がこの映画のテーマだ。

 状況設定とディテールは、カミュのそれを反映している。だからこれは、ひじょうに特殊なケースではあるが、特殊であるがゆえに具体的で、わたし自身の「孤立」と「自分探し」を映す鏡のように感じられた。

 講演会の場面でのコルムリの言葉――、「俗論はこう言うでしょう、“流血だけが、歴史を前進させる”と。だが作家の義務とは、歴史を作る側ではなく、歴史を生きる側に身を置くことです」(プログラムに掲載されたシナリオより引用)。アルジェリアは1962年に独立した。コルムリは無力だったかもしれない。だがわたしはこの言葉に共感した。たとえ無力であっても。
(2013.1.11.岩波ホール)
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石巻市立湊小学校避難所

2012年09月12日 | 映画
 ドキュメンタリー映画「石巻市立湊小学校避難所」を観た。昨年4月21日から避難所が閉鎖される10月11日までの記録。そこに映し出される人々がいとおしくなる映画だ。同じ日本にいながら、東京の生活とはまったくちがう生活を余儀なくされた人々。そのころわたしはなにをしていたのか――。

 温かい映画だ。視線が温かい。小学校の教室で寝起きする被災者にたいする視線が温かい。被災者一人ひとりが、子どもも、お年寄りも、みんな人間としての尊厳をもった存在であるという、その基本的なことが尊重されている。けっして上から目線ではない。

 こんな場面があった。救援物資が届いたのだろう、その分配の場面。体育館の真ん中に物資が山積みされ、そのまわりにロープが張られている。被災者たちはロープの外にいる。司会者がしつこく注意する。「ロープをはずすまでは、絶対になかに入らないでくださいよ。だれか一人でも入ったら、即刻中止します。」

 やがて合図とともにロープが外される。物資に群がる被災者たち。こんな分配の仕方がされていたのかと驚いた。被災者にたいして失礼ではないのか。もっと人間として尊重したやり方はなかったのか。司会者は一段高い壇上にいた。カメラはその位置から見下ろす視線がどういうものかを記録した。

 被災者はこのような視線に晒されていた。たとえば慰問にきた人たちが歌う「ふるさと」もしかり。そこにひそむ、いわば善意の陥穽に、傷ついた人がいる。傷ついても、口に出さずに、穏やかに受け入れた人は、もっといるだろう。そのような人たちと、善意を信じて疑わない人たちとのギャップは、いつまでたっても埋まらない。

 被災者はそれがわかっている。ぐっと呑み込んで、明るく前向きに生きている。笑顔でいる。なかにはポキンと気持ちが折れてしまう人もいるだろう。それがときどき報じられる。だが大半の人は元気でいる。このドキュメンタリーに登場する人たちもそうだ。その一人ひとりをここで紹介する余裕はない。できれば画面でその笑顔を見てほしい。

 100席足らずの(正確には84席だそうだ)ミニシアターでの上映。ほぼ満員だった。学生さんから中高年まで。こんなに入るものかと驚いた。残念ながら東京での上映は9月14日で終了する。だが大阪では21日まで上映されている。10月に入ったら名古屋と大分で、11月には仙台で上映される予定だ。
(2012.9.11.新宿K’s cinema)
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汚れた心

2012年07月24日 | 映画
 以前、ブラジルの作曲家ヴィラ=ロボスについて調べている際に、ブラジル在住の日系人のことを知った。現在約140万人がいるそうだ。サンパウロ市の中心部には日本人街もある。地球の向こう側の日系人社会の存在に想いをはせた。

 映画「汚れた心」(けがれたこころ)はそのような日系人社会の秘話を描いている。時は1945年8月15日の敗戦直後。日本から捨てられ(いわゆる棄民だった)、情報が遮断されているなかで、日系人たちの多くは敗戦を信じられなかった。日本の勝利を信じる人々は「勝ち組」、敗戦を信じる人々は「負け組」といわれた(今の語義とは異なる――)。「勝ち組」は約8割、「負け組」は約2割だった。

 そのとき「勝ち組」による「負け組」へのテロが起きた。日本は負けたのだと唱える「負け組」を殺傷した。その主な団体は「臣道聯盟」(しんどうれんめい)という国粋的な団体だった。その他の団体もあった。

 この事件はその後、日系人社会のタブーになった。けれどもブラジルのジャーナリスト、フェルナンド・モライスが取材して、2001年に「汚れた心」を公刊した。これはベストセラーになった。映画「汚れた心」はそれに触発されたフィクションだ。

 テロはもちろん許されない。この映画でもけっして美化されてはいない。けれども糾弾すればそれでよいのか。それだけでは済まない事情があった。では、なにもかも戦争が悪いといえばよいのか。そこまで一般化してもまずいだろう。日本から棄てられた日系人社会で起きたこと、その重みを沈思することから始めるしかない、という気がした。

 キャストは、写真館を営む平凡な男に井原剛志。やがてテロに走るこの男の苦悩を、寡黙な演技で表現した。わたしはものがいえなくなった。その妻に常盤貴子。これまたほとんど台詞のない寡黙な役柄だ。テロに走る夫を見つめる悲しみの眼差し。テロを教唆する退役軍人に奥田瑛二。「悪」ではあるが、「悪」として断罪すれば済むのかと、わたしに問いかけた。

 監督はブラジル人のヴィセンテ・アモリン。ナチス台頭期のドイツ社会を描いた「善き人」の監督だ。あの映画はついに見逃した。見ておけばよかった。

 登場人物すべての内面に渦巻く苦悩を表現するかのように、ヴァイオリンが激しい音楽を奏でていた。だれが弾いているのかと思ったら、宮本笑里さんだった。アイドル路線で行っている人だと思っていた。それだけではないようだ。
(2012.7.23.ユーロスペース)
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相馬看花(そうまかんか)

2012年06月06日 | 映画
 ドキュメンタリー映画「相馬看花(そうまかんか)―第一部 奪われた土地の記憶―」を観た。平日18:55からの上映。観客は10人程度だった。気の毒になるほどガラガラだ。新聞各紙で取り上げられているので、もう少し入っているかと思った。現実は厳しい。

 この映画は福島第一原発の事故で避難所生活を余儀なくされている南相馬市の人々を追った映画だ。苦しいなかにも冗談を言い合い、地縁・血縁で結びついている素朴な人々。それらの人々がいとおしく思える映画だ。

 音楽も、ナレーションも付いていない。淡々と人々のおしゃべりが続く。方言が強いので、よくわからないこともあるが、それでいいようだ。一語一語はわからなくても、そこにこういう人々がいる、そのことを感じてほしい――というコンセプトで作られた映画だ。

 人々はカメラに向かってしゃべっている。けれどもそこには緊張とか、ポーズなどは感じられない。みんないつものとおり普段着でしゃべっている。考えてみると、これはすごいことだ。それだけ信頼があついのだ。

 撮影・編集・監督は松林要樹(まつばやし・ようじゅ)さん。1979年生まれ。まだ30代だ。単独ではこれが二作目。一作目は第二次世界大戦後にタイ・ミャンマー国境付近に残った未帰還兵の戦後を追った「花と兵隊」(2009年)だった。そのときも、未帰還兵の人々がよくここまで心を開くものだと感心するほど、普段着でしゃべっていた。

 これは松林さんの天分だろう。警戒心を解き、本音で付き合える持って生まれたものがあるのだ。けっしてスマートではなく、むしろ泥臭さが感じられる。逆にそのことが信頼感を生むのだろう。

 「花と兵隊」もそうだったが、「相馬看花」はあらかじめ用意された主張に沿ったドキュメンタリーではない。混沌とした現実をそのまま捉えた作品だ。人々の心のひだに入り込む努力をした作品だ。わたしたちにはずっしりした重い現実が残される。

 このドキュメンタリーは昨年4月から7月までの記録だ。それから約1年。最後まで自宅で頑張っていたが、やむをえず避難所に移った粂夫妻は、今ごろどうしているだろう。仮設住宅に入った末永夫妻は元気だろうか。市議会議員の田中京子さんは今もみんなを支えているだろうか――と気になる。みなさん、お元気だろうか。
(2012.6.5.オーディトリウム渋谷)
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