Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ルート・アイリッシュ

2012年04月27日 | 映画
 ケン・ローチ監督の「ルート・アイリッシュ」を観た。イラクで活動する民間軍事会社を描いた映画だ。民間軍事会社といわれてもピンとこなかった。自分の無知を反省した。現実を知るためにも、ぜひこの映画を観たいと思った。

 民間軍事会社――今、戦争はその多くの部分をアウトソーシングしている。この映画では政府要人や民間人(ジャーナリストなど)の移動にあたっての警備を請け負う会社を描いている。警備といっても、いつ武装勢力から襲われるかわからない状況下での警備だ。襲われたら交戦する。従来なら軍隊がやっていた仕事を民間委託しているわけだ。ケン・ローチ監督の言葉によれば、戦争の「民営化」だ。

 ルート・アイリッシュとはバグダット空港から市内の米軍管轄区域(グリーンゾーン)を結ぶ12キロの道路のことだ。世界でもっとも危険な道路といわれている。この映画はそこで起こった事件とその後の展開を描いたものだ。

 その事件とは――市内の道路で民間軍事会社の警備員(コントラクターという)が警備をしているとき、1台の車が近づいてきた。これを危険と感じたコントラクターが激しく発砲した。車内の全員が死亡した。なかには子どももいた。

 映画では2007年9月1日と設定されている。これは同年9月16日に起きたブラック・ウォーター事件をモデルにしていると思われる。その事件は、民間軍事会社ブラック・ウォーター社のコントラクターが、近づいてきた車に発砲し、さらに周囲にいた人々にも無差別に発砲した事件だ。当時のCNNのニュース記事によれば、発砲は約20分続いて、15台の車が破壊され、17人が死亡したという。

 このような事件は当時よくあった。インターネットで検索すると、いろいろ出てくる。しかも治外法権の状態だった。だから、罪に問われることもなかった。さすがに今では法の整備はおこなわれたようだが。

 映画では、市民に発砲したコントラクター(A)にたいして、同僚のコントラクター(B)が激しく憤る。その数日後に(B)は謎の死を遂げる。少年時代からの親友だった元コントラクター(C)は、(B)の死の真相を追う。

 実はこの構図は企業あるいは国家の「闇」を追うサスペンス映画に似ている。古い革袋に新しい酒を盛った観がなきにしもあらずだが、それはともかく、民間軍事会社の存在をしっかり伝えてくれる映画だ。
(2012.4.26.銀座テアトルシネマ)
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汽車はふたたび故郷へ

2012年04月06日 | 映画
 1934年グルジア生まれのオタール・イオセリアーニの映画「汽車はふたたび故郷へ」を観た。これは半・自伝的な作品だが、自伝を意図しているわけではなく、不器用な、ありのままの自分でしか生きられない人への賛歌だ。

 グルジアの小村で親友たちと楽しい少年時代をすごすニコ(イオセリアーニの分身)。やがて青年になって映画を作るが、旧ソ連体制下では検閲を通らない。どこにも居場所のないニコ。ある人の助言でパリに向かうが、パリでは売れる映画であることが第一条件だ。結局パリにも居場所がなくてグルジアに戻るニコ。

 このようなストーリーが淡々と、むしろユーモアを交えて、飄々と描かれる。それはニコ自身の感覚の表現でもある。ニコはいつもありのままの自分自身でしかいられない。人に合わせることはできない。人と競うこともできない。人とうまくいかないことも多い。ニコはニコなりに努力している。だが実を結ばないことが多い。

 そういうニコだが、その周囲にはいつもニコを助ける人がいる。家族であったり、親友であったり、ときには体制側の政府高官であったり。ニコはいつも自分自身であるがゆえに、不器用な生き方しかできないが、反面そのことが親しい人を招き寄せる。そういう人たちがいつも周囲にいることが、ほのぼのとした空気を生む。

 最後はアッと驚く幻想的な終わり方をする。あれはなんだろうという余韻が残る。もちろん伏線はあった。だがあのような終わり方に結び付くとは思いもしなかった。そこに込められた意味をめぐって、わたしは今もあれこれと想像している。

 この映画には音楽がいつも静かに流れている。それは少年がチェロの練習をしている場面であったり、パリの街角で老人がピアノを弾く場面であったり、カセットテープからグルジアの合唱が流れてくる場面であったりする。それらの静かな音楽が心地よい。

 ニコをふくめて登場人物はいつもみんな酒を飲んだり、煙草を吸ったりしている。そのことも、ゆったりとした、穏やかな流れを作っている。

 イオセリアーニはインタビューのなかで「すべてにあらがって、石になる喜び」を観客と共有したいと言っている。石になる喜び――自分自身である喜び。今まで人に合わせて、妥協し、言いたいことも言わずに、なんとかここまでやってきたわたしには、羨ましく、眩しい言葉だ。
(2012.4.5.岩波ホール)
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ニーチェの馬

2012年03月02日 | 映画
 映画「ニーチェの馬」を観た。2月11日から公開されているので、早く観たいと思っていた。偶然にも昨日はサービスデーだった。料金は一律1,000円。そのせいもあってか、観客はよく入っていた。

 いうまでもないだろうが、ニーチェは1889年1月3日にイタリアのトリノで御者に鞭打たれる馬を見た。ニーチェは駆け寄り、馬の首を抱きしめて泣き崩れた。そしてそのまま昏倒した。ニーチェの精神は崩壊し、ついに正気に戻ることはなかった。

 このエピソードが事実かどうかは確認されていない。でもニーチェの哀れな姿が目に浮かぶような気がする。事実かどうかは別にして、ニーチェの晩年を象徴するエピソードとして忘れがたい印象を残す。

 この映画は、馬はその後どうなったか、という想像の物語だ。そして、結論を先にいうと、驚くべき物語になっている。なにか事件が起きるわけではない。むしろなにも起こらない。馬と、御者と、その娘との、貧しく、単調な、静かな生活。それだけを描いた映画だが、タル・ベーラ監督自ら語るとおり、神がこの世を創造した「創世記」を逆回しするかのように、なにかの崩壊が描かれる。

 それは死だろうか。緩慢に、しかし避けがたく進行する死。この映画は「死」の寓話だろう。また別の見方もできる。わたしたちは東日本大震災で劇的に認識させられたが、生活の崩壊。この映画は「崩壊」の神話かもしれない。そしてもう一つ。この映画はニーチェの狂気のアレゴリーかもしれない。そういったいくつもの見方ができる映画だ。

 馬と御者と娘との生活に、外部の人間が闖入する場面が2度ある。1度目は蒸留酒パーリンカを分けてくれといって男が訪れる場面。哲学的な言辞を弄するこの男は、ニーチェのカリカチュアだろう。2度目は旅の男と女たち。無作法にも、勝手に井戸の水を飲み、娘を連れて行こうとする。これはなんだろう。もしかすると、ワーグナーの楽劇の登場人物たちではなかろうか。ニーチェの生活をかき乱す、あのワーグナーの――。

 最小限の台詞(ほとんど無言だ)、単調な生活(=同じ場面)の繰り返し、延々と続く長いシーン、やがて生じるわずかな変化――このような手法は、ミニマル音楽を想わせる。けれどもその変化が新たな局面への移行ではなく、異常、欠落あるいは崩壊であることに特徴がある。ミニマル音楽でそのような例があったかどうか、ちょっと思い出せない。
(2012.3.1.イメージフォーラム)
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ルルドの泉で

2012年01月13日 | 映画
 オーストリア・フランス・ドイツの共同制作映画「ルルドの泉で」。2009年のヴェネチア国際映画祭で5部門受賞の作品だ。

 ルルドとはピレネー山脈のふもとにある小さな町。1858年に貧しい少女ベルナデッタの前に聖母マリアが出現した。そのとき泉が湧きだし、その水には病を癒す「奇跡」の力があるという噂が広まった。今ではカトリックの聖地になっている。年間600万人もの人たちが、ヨーロッパ中から、そして日本からも訪れる。

 本作は、そのような巡礼者の一人、不治の病により車椅子生活を余儀なくされているクリスティーヌの物語だ。クリスティーヌはルルド巡礼のツァーに参加して、洞窟めぐり、水浴、告解、ミサ、夜の蝋燭行列などのプログラムに沿って数日間を過ごす。そのとき「奇跡」が起きる。車椅子から離れて、杖を使って歩くことができるようになるのだ。戸惑いながらも素直に喜びを表すクリスティーヌ。祝福しながらも嫉妬を隠せない同行者たち。

 「奇跡」は起きたのか、それとも一時的な快復なのか、そもそも「奇跡」という超常現象はあるのか――そういった関心は本作にはない。むしろ「奇跡」を求めて集まってくる人々の、各人各様の心象風景、神との対話、俗世間そのものの人間関係――そのような点に関心がある。

 ラストの数分間は感動的だ。具体的な記述は控えるが、再び車椅子にすわったクリスティーヌの穏やかな微笑み。その美しさは人生にたいして肯定的になれた証だ。

 わたしのような者がこういうことをいうのは、ほんとうは憚られるのだが、あの穏やかな微笑みは、神の光がさしたのかもしれないと、帰宅後、思った。そう思ったら、眠れなくなった。

 残念ながらわたしは信仰がないままに何十年も生きてきた。けれども、信仰はないものの、宗教的な感情は、人並みとはいえないまでも、少しはあるのかもしれない、と思うことがある。たとえばメシアンの音楽を聴いて心が震えるときなど、それを感じる。そういう意味では、信仰は一生の問題だ。本作はその問題に触れる作品だ。

 なんの予備知識もなく観た映画だが、プログラムによると、監督はジェシカ・ハウスナーという女性。なるほどと思った。なにかを構築するよりも、淡い色の光が交錯しながら何本も流れていくような感触だ。クリスティーヌ役はシルヴィー・デステューという人。すばらしく透明感のある俳優だ。
(2012.1.12.シアター・イメージフォーラム)
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グレン・グールド

2011年11月01日 | 映画
 ドキュメンタリー映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」が公開されている。グールドの生涯を数多くの映像と関係者の証言でたどった作品。2009年のカナダ映画だ。

 グールドというと、コアなファンがいるし、たとえそれほどではないにしても、自分なりの思い入れをもっている人は多い。グールドとはそういう演奏家――聴く人になにか一対一の関係を感じさせる演奏家――だった。

 グールドが最初に入れたLP、あのバッハの「ゴルトベルク変奏曲」は、学生だったわたしの愛聴盤の一つだった。繰り返し、繰り返しこのレコードを聴いた。あれは衝撃的なバッハ演奏だった。それだけではなく、青春の鬱屈した想いをぶつける対象でもあった。これはわたしだけの事情ではなかった。友人のS君はダブダブのコートを着て、長いマフラーを巻き、ハンチング帽をかぶって学校に来た。わたしはS君の専攻のフランスの詩人ランボーの真似かと思った。でも、そうではなかった。あれはグールドだった。

 グールドはわたしの友人の間では神話的な存在だった。

 その後、就職した。グールドからは次第に遠のいた。そして何年たっただろうか、「ゴルトベルク変奏曲」の再録音が出た。大々的に宣伝されたそのLPをわたしも買った。さっそく聴いて、すぐに封印した。わたしの知っているグールドとはちがっていた。相前後して、グールドの訃報が届いた。なぜかそれには驚かなかった。ほぼ同時に、グールドがオーケストラを指揮してワーグナーの「ジークフリート牧歌」を録音したことを知った。これには驚いた。狼狽した、といったほうがよい。できることなら、そんな事実は抹消したかった。

 これがわたしの内なるグールドだ。

 グールドは1982年に亡くなった。50歳だった。グールドはその生涯を、若いころは明るく楽しく、しかしいつのころからか、苦しみに満ちて過ごした。この放物線は、ある意味ではわたしたちのだれにでも共通するものだ。ただグールドにはピアノの天分があった。ピアノ演奏によって放物線の軌跡を残した。

 本作にはグールドが関係した3人の女性が登場する。それぞれが語るグールドの思い出は、コマーシャリズムによってプロデュースされた虚像ではなく、ひどく生々しい実像を見せてくれる。没後30年近くたつ今、わたしたちのグールド理解は一歩深まった。
(2011.10.31.渋谷UPLINK)
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やがて来たる者へ

2011年10月31日 | 映画
 岩波ホールで上映中の「やがて来たる者へ」。2009年のイタリア映画。これは第2次世界大戦の末期、1944年9月29日~10月5日にイタリアで起きた「マルザボットの虐殺」を描いた映画だ。

 マルザボットの虐殺といわれても、なんのことかわからなかったので、事前にWikipediaで調べてみた。日本語のWikipediaには載っていなかったが、英語版には載っていた。武装SS(ナチス親衛隊)によるイタリア国内で最大の住民虐殺事件。犠牲者数は諸説あるようだが770人程度で、その半数以上は子ども、女性そして老人(つまり非パルチザン)だった。

 こういうと、本作は過酷な戦争映画のように思われるかもしれないが、けっしてそうではない。むしろイタリア山間部の村人たちの日常生活をほのぼのと描いた映画だ。画面はイタリア・ルネサンス絵画のような暖色系の中間色で構成され、このままいつまでも観ていたい気分になる。

 もう一つ、重要なことは、戦争の描き方がしっくりいったことだ。敵であるドイツ兵といえどもそれぞれ妻もいれば子どももいるはず。家に帰ればよき夫であり父であるかもしれない。ところが戦争というメカニズムに組み込まれると、平気で住民を殺す。永遠に解けない不条理であるこの矛盾を、本作は丁寧に(一方的に敵と決めつけないで)描いている。

 こういう敵味方の描き方は初めてのような気がして、監督の経歴を見てみた。ジョルジョ・ディリッティ監督、1959年生まれ。わたしよりも年下だが、ほとんど同世代だ。なるほど、感じ方が似ている。

 さらにもう一つ、本作で特徴的なことは、音にたいする感覚が鋭敏なことだ。作中で使われている音楽は多様式といってもよいほどで、しかも的確に使われている。加えて、主人公の少女マルティーナが口のきけない少女として設定されていることにより、まだら模様のように沈黙の層が存在する。さらに映画の終盤、マルティーナの父がドイツ兵の投げた手榴弾によって鼓膜を破られると、なにも聞こえなくなる。無音の緊張がマルティーナの父の絶望を描く。

 本作の後半では、ドイツ軍による住民虐殺と、マルティーナによる生まれたばかりの弟の救出が、並行して描かれる。一方は死のドラマ、他方は生のドラマ。両者の同時進行は2声のカノンのようだ。カノンはやがて最後の和音にいたる。本作では生のドラマが追い抜き、長調の和音で静かに終わる。
(2011.10.28.岩波ホール)
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ミケランジェロの暗号

2011年09月29日 | 映画
 普段は、観たい映画はいくつもあるのに、大体は見逃してしまう。「ミケランジェロの暗号」もその可能性が大きかった。たまたまvodkaさんのブログ(左欄のブックマークに登録)で推薦されていたので、頑張って観に行った。

 本作は2010年のオーストリア映画。1938年のウィーンが舞台だ。ユダヤ人の画商とその息子、息子の幼なじみでナチスになった親友が繰り広げる、虚々実々の、生死をかけた駆け引きの物語だ。

 といっても、これはシリアスな映画ではない。むしろ軽くて、ユーモアのセンスがある映画だ。現実にこんなこと――つまりユダヤ人がナチス相手に駆け引きをする――が可能だったかどうかはわからない。けれどもプログラムに掲載されたプロダクション・ノートの一節を読んで納得した。

 それによると、本作のヴォルフガング・ムルンベルガー監督は、脚本を書いたポール・ヘンゲと初めて会ったとき、「『シンドラーのリスト』はユダヤ人の好きな映画だとずっと思っていたけれど、そんな見方は間違いだったと気づかされたよ」と語っている。なるほど、これにはわたしも目から鱗だった。

 ヘンゲは1930年ウィーン生まれのユダヤ人。あのホロコーストに身を置いた人はそうなのかと、わたしも気づかされた。それがわかると、本作の見え方が変わってきた。戦後半世紀余りたった今、ホロコーストの当事者だった人は、ナチスと闘う、勇気あるユダヤ人の物語を欲しているのだ。

 ミケランジェロのデッサンを秘匿しているユダヤ人の画商。画商その人は強制収容所で絶命する。デッサンを追うナチスと画商の息子との攻防が始まる。息子もデッサンの隠し場所は知らない。手掛かりは画商が残した謎の遺言だ。

 もっとも、その謎はすぐに察しがついた。だれよりも鈍いわたしでさえ察しがついたのだから、おそらくみんな察しがついたろう。デッサンはあそこにある、と思いながら映画を観ていたはずだ。そしてそのとおりのところにあった。実はこれには拍子抜けした。たとえば、そこにはなかったとか、デッサンそのものがフィクションだったとか、なにかそのような落ちがほしかった、というのが観客の一人たるわたしの勝手な思いだ。

 息子(ユダヤ人)とその親友(ナチス)の双方から想われる女性レナの造形がよい。本作に人間的な温かさをもたらしたのはレナの存在だ。
(2011.9.28.TOHOシネマズシャンテ)
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一枚のハガキ

2011年08月16日 | 映画
 今年の8月15日は、正午には戦没者のために黙とうを捧げ、夜は映画「一枚のハガキ」を観に行こうと決めていた。

 今年99歳の映画監督、新藤兼人さんの最新作「一枚のハガキ」。ストーリーは紹介するまでもないだろう。監督ご自身の体験をもとにした物語。もちろん細部やストーリー展開はフィクションだろうが、こういう話は当時どこにでもあったと思われる。わたしたち庶民が戦争に翻弄された悲惨な時代。それはわずか66年前のことだ。

 戦争で夫を失い、舅姑の懇願で亡夫の弟と結婚させられた友子(大竹しのぶ)。こういう話は当時よくあったと聞く。映画ではその弟も戦死する。

 一方、海軍2等兵だった啓太(豊川悦司)は、上官がひいたクジの結果、戦地に行かずに終戦を迎える。実家に戻ると、だれもいない。妻は啓太が死んだものと思い、父とできていた。そこに啓太から帰郷の連絡が入ったので、驚いた2人は姿を消したのだ。

 これだって、当時はあったろう。今の倫理では考えにくいが、当時はとにかく一人では生きていけないので、仕方なかったかもしれない。正式な夫婦になるかどうかはともかく、内縁の関係ではあり得ることだ。

 啓太は、戦友だった友子の最初の夫からハガキを託されていた。そこで、戦後のある日、友子を訪れる。2人が惹かれ合うのは定石どおりだが、簡単にハッピーエンドに持っていかないのがさすがだ。友子の胸の底には最初の夫への想いが消えていなかった。最後の最後になって半狂乱になる友子。これをくぐり抜けて初めて2人はほんとうに理解し合う。

 大竹しのぶさんの演技はすばらしい。わたしが気に入ったのは、何気ないシーンだが、回想の場面で最初の夫の出征のときに、村はずれまで見送るシーン。夫に「もうここまででいい」といわれて、涙を浮かべ、唇をかみしめ、口惜しそうに夫を見送るその表情。

 新藤監督の作品では、以前「午後の遺言状」に感動した記憶が生々しい。調べてみたら、あれは1995年の作品だった。それにくらべると、本作はやや粘りがなくなっているが、もちろんこれは仕方がないと思わなくてはならない。

 去る7月の試写会には天皇陛下も出席された。反戦映画なので意外な感じもするが、天皇陛下が出席され、新藤監督と親しく言葉を交わされたそうだ。わたしたちはよい時代に生きている。願わくばこの時代がずっと続きますように。
(2011.8.15.テアトル新宿)
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はだしのゲンが見たヒロシマ

2011年08月08日 | 映画
 66年前のその日、広島に原爆が投下された。当日は暑かったという。今年の8月6日も暑かった。朝、ラジオから流れる平和記念式典の実況を聞きながら、わたしも1分間の黙とうを捧げた。黙とうをしている間、鐘を打つ音が一定の間隔で流れていた。ホワイトノイズのような音は、会場の無数の蝉の声だった。

 中継が終わって、家を出た。ドキュメンタリー映画「はだしのゲンが見たヒロシマ」を観るために。漫画「はだしのゲン」の作者、中沢啓治さんが自らの被爆体験を語ったドキュメンタリー映画。中沢さんが式典に参加したことを伝えるアナウンサーの話のなかで、この映画を知った。

 インタビューに答えるかたちで被爆体験を語る中沢さん。今は眼を患っているので、線を引けなくなった(=漫画を描けなくなった)が、語ることはできる、と。やんちゃ坊主がそのまま大人になり、年を召されたような感じだ。その語り口は明るく、元気がよい。

 原爆投下直後の惨状を語るときは、息をのんだ。皮膚がむけて指先にひっかかって垂れ下っている人たちが、亡霊のように歩いていたそうだ。道端には何人もの人たちが横たわり、「水をくれ」と呻いていたので、水を与えると、コトンと音を立てて死んでいったそうだ。そのため、水を与えてはいけない、水を与えると死んでしまう、という噂が広がったそうだ。

 これらの描写は、微に入り細をうがっていて、さすがは漫画家だと思った。

 終了後は、初日ということもあり、監督の石田優子さんと撮影の大津幸四郎さんとのトークがあった。石田さんはまだ若い方だ。ベテランの大津さんがいっていたように、素直な感性が好ましかった。

 後日、左欄のブックマークに登録しているブログを読んでいたら、「ベルリン中央駅」の8月6日の記事『「ひとりの犠牲者、沈黙を破る」‐ヒロシマ原爆の日に‐(Tagesspiegel紙より)』が目にとまった。ベルリン在住の科学者で、被爆者でもある外林秀人さんにたいする、長文のインタビュー記事を翻訳したもの。ブログ主の中村真人さんの労作だ。

 外林さんが語っていることと、中沢さんが語っていることには、共通する部分が多い。同じ日に、同じ場所にいて、同じ体験をしたのだから、当然といえば当然だが、お二人の証言が補強し合って、事実の重みを増しているように感じられた。
(2011.8.6.オーディトリウム渋谷)
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祝の島

2011年08月05日 | 映画
 ある偶然がわたしに届けてくれた一枚のチラシ。届いたときには、それほど気にも留めなかったが、ふと思い出して、出かけてみた。ドキュメンタリー映画「祝の島」(ほうりのしま)の上映会。

 瀬戸内海に祝島(いわいしま)という小さな島がある。人口500人程度。高齢化が進む過疎の島だ。島民は漁業や農業でささやかな暮らしをしている。この島が原発問題で揺れている。しかも28年間も。中国電力が4キロ先の対岸に原発をつくる計画だからだ。海をはさんだ4キロ先は目の前だ。島民のなかには賛成派もいるが、約9割が反対している。

 本作は反対派の島民の日常生活を追ったもの。原発の是非という難しい議論は出てこない。島のおじいさん、おばあさんが、漁をしたり、海藻をとったり、田んぼの世話をしたりする、昔ながらの生活を描いている。

 だからこれは、ドキュメンタリーというよりも、詩というほうが相応しい。映像による、懐かしく、美しい、四季折々の詩だ。

 3.11の前なら、これで終わっただろう。けれども、福島第一原発の事故が起こった今では、それだけでは済まされない。原発事故は、このようなおじいさん、おばあさんの生活を奪うからだ。

 本作は2010年4月に完成された。その後、各地で上映会が続いているが、おそらく3.11の前と後とでは、本作のリアリティはちがっているだろう。

 少し回り道をして恐縮だが、先日、某県の前知事と会食する機会があった。そのかたは中央省庁のエリート官僚だったが、知事に転身して、長期にわたって職務をまっとうされた。わたしは若いころ、そのかたの薫陶をうける機会があり、温かみのあるリーダーシップを学んだ。そのときの会食は、少人数で、肩の張らない、くつろいだ場になり、話題も多岐にわたった。けれども、原発問題についてだけは、厚い壁を感じた。推進する立場の根拠となるエネルギー問題、経済問題、財政問題、それぞれもっともだったが……。

 福島の方々、そして祝島のおじいさん、おばあさんの生活も、大事なのだ。

 本年6月に大阪府の橋下知事が、多くの原発が福井県に立地している現状に触れて、「もし原発が必要なら、大阪につくるという話にして、府民に問うしかない」と発言した。これは東京でも同じことだ。案外、原発問題の核心は、このへんにありそうな気がする。
(2011.8.4.目黒区民センター)
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ナチス、偽りの楽園

2011年05月02日 | 映画
 ドキュメンタリー映画「ナチス、偽りの楽園」をみた。すぐれた俳優であり、映画監督でもあったクルト・ゲロンの、ユダヤ人であるがために、ナチスに翻弄された人生を描く映画。不条理な力によって悲劇の人生を強いられたゲロンを通して、当時の社会が浮き上がってくる。

 ゲロンは俳優として、さらには映画監督として、成功した人生を歩んでいた。ベルリン郊外の、湖に面した高級住宅地に豪邸をかまえた。当時はナチスの台頭期だった。ユダヤ人への迫害は日増しに激しくなり、ゲロンはパリに逃れた。やがてオランダに移り、アムステルダムで捕えられた。テレージエンシュタット(ドイツ語の地名。元々は、そして現在でも、チェコのテレジン)の強制収容所に送られた。

 テレージエンシュタットの強制収容所は、ナチスが第二次世界大戦中に建てた各地の強制収容所のなかでも、特異な存在として知られている。そこにはオーケストラがあり、作曲もおこなわれていた。もちろん人道的な理解があったわけではない。連合国側をあざむくプロパガンダだった。

 よく知られているエピソードだが、1944年に国際赤十字社とデンマーク赤十字社の査察があった。ドイツおよびその支配地域から姿を消したユダヤ人たちの運命について、疑問の声が高まったからだ。ナチスはユダヤ人たちに、査察官を笑顔で迎えさせ、サッカーの試合をさせ、オペラを上演させた。査察官たちはだまされた。

 驚くべきことには、本作にはその映像が出てくる。書物でしか知らなかった史実。しかも、当時26歳だったという査察官が、後年、インタビューに答える映像も出てくる。わたしは今まで、査察官が気付かなかったとは、信じられなかった。しかしインタビューでは、気付かなかったと言っている。ほんとうだろうか。嘘かもしれない。が、自らそう信じこまないと、生きていけないのは確かだろう。国際社会とは、なんと無力なことか。

 合唱の練習風景も出てくる。断片的なので、曲名はわからないが、美しいハーモニーがきこえる。生殺与奪の権をにぎられ、明日(アウシュヴィッツなどの)絶滅収容所に送られるかもしれない人々は、たとえ偽装の練習風景であろうと、そのハーモニーのなかに「神」を感じなかったろうか、ほんの一時であれ、「永遠」を感じなかったろうか、と思った。すべての人々がそうだったとは言えないにしても、何人かの人々は――。

 わたしは、なにかの天啓のように、音楽の力を感じた。
(2011.5.1.新宿K’s cinema)
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神々と男たち

2011年03月10日 | 映画
 フランス映画「神々と男たち」。1996年にアルジェリアで起きた武装イスラム集団による修道士7人の誘拐・殺害事件を描いたもの。昨年のカンヌ国際映画祭の審査員特別グランプリ受賞作品。本年2月にはセザール賞の最優秀作品賞も受賞。

 武装イスラム集団の活動が激化するアルジェリアの山村。修道院を営みながら医療活動を続けるフランス人修道士たちは、避難すべきか、とどまるべきかで揺れる。だれもが死と向き合う。何度も繰り返される対話。その姿はベルナノスの戯曲「カルメル会修道女の対話」(これも映画の台本として書かれた。後にプーランクがオペラにした。)を想起させる。もっともベルナノスの場合はフランス人的な饒舌が続くが、本作は寡黙な静けさに満ちている。

 やがて修道士たちは一人ひとりの意思を述べる。「カルメル会修道女の対話」では一人だけ殉教に反対するが(でもすぐに撤回)、本作の場合は全員とどまることを望む。死の恐怖を抜け出した男たちの穏やかな顔。

 ある夜、武装イスラム集団らしき男たちの襲撃があり、修道士たちは拉致される(本件の真相は明らかではない。映画でも特定を避けている。)。処刑場にむかう修道士たちの姿はゴルゴダの丘にむかうイエスのようだ。

 印象的だったのは、武装イスラム集団にたいする憎しみ、あるいはイスラム世界にたいする蔑視が感じられないことだ。主人公の修道院長はもちろん、他の修道士たちも憎しみや蔑視をもっていない。命を脅かされているにもかかわらずだ。これは映画のためのフィクションではなく、事実そうだった。実在の修道院長がテロの犠牲になることを覚悟して残した遺書がある。映画にも登場する。プログラムに掲載されているので、少々長くなるが引用したい。作家の曽野綾子さんの意訳。

 「そして、私の最期の時の友人、その意味も知らず私を殺す人、にもこの感謝と別れを捧げる。なぜなら、私はあなたの中にも神の顔を見るからだ。私たち二人にとっての父である神が望まれるならば、私たちはゴルゴダの丘で最後にイエスと共に十字架にかけられながら、永遠の命を約束された盗賊たちのように、また天国で会おう。アーメン、インシャラー」

 敬虔な信仰心とはここまで行くものかと、驚くばかりだ。「その意味も知らず私を殺す人」に「また天国で会おう」と呼びかける精神力がなければ、憎悪の連鎖は断ち切れない。
(2011.3.9.シネスイッチ銀座)
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442日系部隊

2010年11月01日 | 映画
 先週の土曜日は、台風接近ということで、朝から冷たい雨がふっていた。一日中家でごろごろしていたが、夜になって外出した。東京国際映画祭の「日本映画・ある視点」の枠で上映される「442日系部隊」(すずきじゅんいち監督)をみるためだ。

 本作はドキュメンタリー映画。第二次世界大戦のさなかにアメリカ合衆国陸軍に日系人だけで編成された部隊があった。当部隊はヨーロッパ戦線に投入され、勇猛果敢な戦闘によって注目された。その部隊が第442連隊戦闘団だ。

 Wikipediaによれば、当部隊の延べ死傷率は314パーセントだったそうだ。ということは、定数の約3倍の兵士が死傷したことになる。文字どおり命をかえりみずに突撃していった人たちなのだろう。

 生き残った人たちは今ではアメリカ本土やハワイ諸島で穏やかに暮らしている。みなさん80歳代から90歳代だ。当時の話をきけるのはそろそろ最後かもしれないというこの時期に、すずきじゅんいち監督が丹念にインタビューしたのがこの映画だ。

 ある人は自宅の美しい庭で、気持ちよさそうな風に吹かれながら、言葉少なに当時を語った。横できいている家族が「初めてききました」というと、その人は「戦争のことは、その経験がない人にはわかりませんから」とポツリといった。続けて、「戦争というのは人を殺すことで、そんなことは、人を殺した人でなければわかりません」といったような気がするが、これは記憶のなかでおぎなったことかもしれない。

 またある人は、室内でインタビューを受けながら、「私は勲章をつけています。それは家に帰れなかった沢山の兵士たちのためです。私自身は英雄でもなんでもありません」といった。この発言の前後には、両足を撃たれて、仲間に救出されず、手榴弾で自殺したドイツ兵のことにふれていた。そのなかで、「なんでだれも助けなかったのか……。助けていれば、あのドイツ兵も家に帰れたのに」と話していた。

 本作は、こういうインタビューのほかに、当時の映像や、今の現地の平和でのどかな光景によって構成されている。会場で手にしたチラシには、私とは思想を異にする人たちのコメントものっていた。が、作品そのものからは、特定の傾向は感じられなかった。

 終了後、すずき監督が――ロサンジェルスで自動車事故に遭ったばかりだが――片腕を包帯で吊りながら、元気な姿をみせて、質疑応答に応じた。会場からは積極的な質問が相次いで、充実した時間がすぎた。

 すずき監督がいった「国際化、国際化というけれど、日系人のことも知らないで国際化もないだろう、という気持ちで作りました」という言葉が印象に残った。
(2010.10.30.シネマート六本木)
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冬の小鳥

2010年10月28日 | 映画
 岩波ホールで公開中の映画「冬の小鳥」。

 時は1975年、場所は韓国のソウル近郊。9歳の少女ジニが父親に連れられてカトリック系の児童養護施設を訪れる。父親はそのまま去る。事情がのみこめないジニは途方に暮れる。パパはすぐに迎えに来るはずと信じて疑わない。

 この映画は親に捨てられた少女の話だ。現実を受け入れられず、固く心を閉ざす少女の姿が痛々しい。監督は1966年ソウル生まれの女性監督ウニー・ルコント。彼女自身、親に捨てられて、9歳のときにフランスに渡ったそうだ。今では韓国語を忘れてしまって、本作の脚本はフランス語で書いたとのこと。

 プログラムにインタビューがのっていた。そのなかで強調していたのは、これが自分自身の体験ではなくフィクションだということだ。当時、感情的に体験したことを、今いかに伝えるかという観点で、実体験をフィクションに置き換えていったそうだ。

 施設のだれにたいしても――同僚の少女たちにも、シスターにも、寮母にも、院長にも――溶け込めないジニの体験を、フラッシュバックなどの手法をとらずに、ジニの目に映ったとおりに、その順番どおりに、映し出す。

 やがてジニにも親友ができる。ある日2人は、怪我をした小鳥をみつける。介抱する2人。怪我をした冬の小鳥はジニ自身でもある。

 その親友はアメリカ人夫妻の養子にもらわれていく。取り残されたジニ。ここからラストシーンまでは、映画的な密度が濃くなり、目が離せない。それまでのディテールがイメージ的に重なり、豊かな――しかし静かな――流れとなって進行する。私の心はヒリヒリ痛んだ。

 本作の日本語での題名は「冬の小鳥」だが、フランス語では「新たな人生」、韓国語では「旅人」となっている。どれも作品の本質をよく表している。

 私はもう少しで60歳になるが、今後とも予期せぬ別れや理不尽な喪失があるかもしれない。そういう人生がぼんやり見えているときに、人生とはなにかを、9歳の少女ジニに教えられた思いがする。

 ジニを演じたのはキム・セロン↑。韓国ではテレビ番組への出演や雑誌のモデルをしているそうだが、映画出演は初めて。監督がインタビューで語っているように、スクリーン上での存在感がすごい。たいへん可愛いが、それだけではなく、一個の人間として、表情にいわば「現実にたいする内面の葛藤」をたたえている。
(2010.10.26.岩波ホール)
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難民映画祭:テザ(仮題)

2010年10月08日 | 映画
 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)主催の第5回UNHCR難民映画祭が開かれている。首都圏版は10月1日から10日まで東京、神奈川、埼玉の各都市で、全国版は15日から30日まで北海道、神奈川、兵庫、福岡の各都市で。私は昨晩、東京のイタリア文化会館で上映された「テザ(仮題)」をみてきた。

 本作は2008年のエチオピア、ドイツ、フランスの共同制作映画。上映時間140分だから大作だ。途中まったくダレないで、あっという間に終わった印象。1946年エチオピア生まれ(現在アメリカ在住)の監督ハイレ・ゲリマHaile Gerimaの力量だ。

 ストーリーは、西ドイツ(当時)で医学を学び、故国エチオピアに戻ってその知識を役立てようと思った青年が、社会主義軍事独裁政権のもとにある故国で挫折を重ね、精神的に不安定になっている「今」を描いたもの。

 青年の軌跡は大きくいって3種類に分かれる――西ドイツで勉学中の理想にもえた時期、エチオピアの首都アディスアベバに戻って現実の不条理にぶつかった時期、そして故郷の村に帰って孤立している「今」――。そのうち基調としては「今」が描かれ、フラッシュバック的に西ドイツでの出来事やアディスアベバでの出来事が挿入されて、しだいに「今」の原因が解明されていく構成だ。

 理想は現実の前では無力なのか、そういう問いが、やるせないまでに――しかし淡々と――胸に迫ってくる。最後に青年は身近なところに生きる意味を見出したかにみえる。未来が開かれるきざしが感じられるエンディング。

 絶望的な現実にもかかわらず、映像が美しい。チラシ↑に使われている湖に浮かぶボートの映像はとくに詩情豊かだ。この湖はタナ湖という湖。帰宅後、世界地図をみてみたら、たしかに載っていた。琵琶湖の4.5倍もある大きな湖だ。

 題名のテザTezaとは「朝露」という意味の現地語(アムハラ語)だ。映画の冒頭で歌われる歌に出てくる言葉。ひょっとすると歌の題名かもしれない。この歌をはじめ随所に民謡風の歌が出てきて効果的だ。

 遠いエチオピアという国でなにが起きて、人々はどう苦しんでいるかを伝える映画。今は、独裁政権は崩壊しているが、状況が改善していると考えるのは早計だろう。

 本作は2008年ヴェネチア国際映画祭の審査員特別賞などを受賞している。日本での上映は昨日が初めて。2011年春にはシアター・イメージフォーラムで一般公開が予定されているとのことだ。
(2010.10.7.イタリア文化会館)
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