Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

我が闘争/続・我が闘争

2010年09月08日 | 映画
 映画「我が闘争」と「続・我が闘争」をみた。前者は1960年にスウェーデンで製作されたドキュメンタリー映画。ヒトラーの生涯が描かれている。日本では1961年(昭和36年)に初公開された。後者はその続編で1961年製作。こちらはニュルンベルク裁判で告発されたナチスの戦争犯罪を描いている。日本での初公開は1963年(昭和38年)。どちらも戦時中のドイツのニュース映画などを編集して再構成したもの。

 前者で描かれたヒトラーの生涯にはあまり目新しい事実はなかった。1960年製作だから当時としてはこれでも十分にインパクトがあったのかもしれない。それから50年後の現在では、研究はもっと進んでいるだろう。それにしても、既知の事実とはいえ、生きたヒトラーやその周囲の人物が動き回る映像には生々しさがあった。

 素材となった映像は、戦時中のニュース映画やレニ・リーフェンシュタールの記録映画「意志の勝利」などから切り取ったものなので、ヒトラーは公式の顔をしている。その内面はうかがえない。また庶民の素顔あるいは迫害された人々の実相はみえてこない。そのなかにあって、ワルシャワのユダヤ人居住区(ゲットー)の悲惨な映像には目をみはった。

 「続・我が闘争」では、米、英、仏、ソの連合国側がナチスを裁いたニュルンベルク裁判に基づいて、アウシュヴィッツ強制収容所の実態など、ナチスの残虐行為が映像で描かれていた。山積みにされた死体、放置された病人、やせ衰えて骨と皮になった人々、生きる意欲を失って虚ろな目をした人々。

 法廷の被告席に居並ぶゲ―リンクなどのナチス幹部の映像も興味深かった。ある者はふてぶてしい態度だが、内心は神経質そうだ。ある者は眉間に深いしわを寄せている。ある者はおどおどした様子を隠せない。全員がヒトラーに罪をかぶせて、自らは無罪だと主張した。集団としてのナチスの姿がみえた気がする。

 法廷で告発されたナチスの罪業のうち、たとえば収容所の犠牲者の肉体から製造された人間石鹸は、今では疑問視されているようだ。入れ墨をした人間の皮をはいで作ったというブックカバーやランプシェードはどうなのだろう。また300万人とされたアウシュヴィッツの犠牲者数も揺れている。ニュルンベルク裁判が戦後の混乱のなかで開かれたことは留意すべきだろう。

 映画が終わって外に出たら夜11時だった。家に帰ってシャワーを浴び、ビールを飲んだら、すぐに眠れた。今朝は早く目が覚めてしまった。頭のなかでは残虐な映像がグルグル回っていた。
(2010.9.7.シアターN渋谷)
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樺太1945年夏 氷雪の門

2010年07月30日 | 映画
 私は2年前に北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)を訪れた。それまでは戦争は1945年8月15日で終わったものと思っていたが、同所でみた展示パネルによって、8月15日以降もソ連軍の樺太(サハリン)侵攻は続いていたことを知った。8月20日には混乱する情勢のなかで最後まで通信を守ろうとしていた真岡(まおか)郵便電信局の女性交換手9名が集団自決する事件が起きていた。私は呆然とした。

 先日この事件を描いた映画が公開されていることを知った。同時にその映画が実は1974年に完成されたものの、当時、反ソ的な映画とみなしたソ連の圧力によって――ごく一部の地域を除いて――公開自粛になったことを知った。

 さっそく仕事の帰りにその映画をみてきた。題名は「樺太1945年夏 氷雪の門」。二木てるみ、岡田可愛、藤田弓子などの懐かしい女優さんが青春真っ盛りだ。丹波哲郎さんもまだ若い。今は亡き南田洋子さんも元気だ。

 ソ連侵攻の場面がすさまじい。艦砲射撃をうけて炎上する真岡の町。ソ連兵が逃げまどう一般市民を無差別に撃つ。白旗をかかげて停戦交渉に現れた日本兵を射殺する。私は正直にいって、これなら反ソ的とみられても仕方ないと思った。だがプログラム誌によると、これらはみな事実だったそうだ(樺太・軍事史研究家の藤村建雄氏による)。

 私自身はとりたてて反ソ的な映画だとは思わなかった。日本軍も同じようなことをやったかもしれない。アメリカ軍だってそうだ。ドイツ軍もまた然り。その意味では戦争一般の残虐さの一片を切り取った映画だと思った。

 電話交換手のなかで藤田弓子さんの演じる人物が、集団自決の場にいず、戦後になって稚内の慰霊碑「氷雪の門」の前でたたずむというストリーになっていた。余韻を残す名場面だが、なぜ集団自決の場にいなかったのかはわからなかった。もしかすると、今回の公開ではフィルムの損耗が激しいので、もともと156分のものだったのを119分に編集したそうだから、カットされた部分になにかのドラマが秘められていたのかもしれない。

 冒頭のナレーションは時代がかっていて、私には少々ショックだった。1974年といえば私はまだ大学生。そのときから今にいたるまで、私にとってはあっという間だったが、物理的な時間は長かったのかと思った。音楽もそうだった。いかにもロマン派風の音楽は、今ではもう使われない。

 もっともそういうことはすぐに気にならなくなった。1945年8月の樺太でなにがあったのか、それを伝えようとする関係者の皆さんの心意気にふれたからだろう。
(2010.7.28.渋谷シアターN)
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牛の鈴音

2010年01月08日 | 映画
 韓国のドキュメンタリー映画「牛の鈴音」(うしのすずおと)をみた。同国では2009年1月に公開され、約300万人の動員という大ヒットになったとのこと。日本でも12月から公開されている。

 この映画は韓国の農村に住むお爺さんとお婆さん、そして年老いた牛の生活を記録したもの。お爺さんはその牛を使って農作業をして暮らしている。子どもたちはみんな離れて住んでいて、お盆のときに集まるくらい。お爺さんもお婆さんも「肩身の狭い思いをしたくない」と言って、子どもたちと暮らすことを嫌がっている。

 牛はもう40年も生きている。普通、牛の寿命は15年くらいらしい。この牛は驚くべき高齢だ。今でも毎日、朝から晩までお爺さんと農作業をしている。

 そのような二人と一頭の淡々とした日常を追った映画。事件らしい事件が起きるわけでもなく、ナレーションやインタビューも入らない。音楽もない――あるのはただ牛の首につけられた鈴の音だけ。

 映像がひじょうに美しい。農村の四季折々の風景はもちろんだが、ときどきハッとするような劇的なものがある。たとえば、ある日、お爺さんはみんなに説得されて、年老いた牛を売りに行く。けれども、寄ってたかって「老いぼれ牛」とバカにされて、お爺さんは腹を立て、売るのを止める(ほんとうは売りたくなかったのだ)。
 その帰り道。牛の引く荷車に乗って帰るお爺さんを夕日が照らす。それをカメラが下からのアングルで写す。シルエットになって浮かび上がるお爺さんと牛。

 この映画はドキュメンタリーだが、ほんとうになんの演出もないのかどうかはわからない。あってもよいのかもしれない。ストーリーもあるような、ないようなものだが、首尾一貫していて無駄がない。ちゃんと結末もある。なので、あまりドキュメンタリーにこだわらずにみたほうが良いような気がした。

 結局この映画が描いたのはなんだろうか。
 第1に昔ながらのお爺さんとお婆さんの生活ぶり。それは時代遅れの不便なものだが、現代の合理的な生活からは失われた人間くささがある。
 第2にお爺さんと牛との情愛。牛がついに動けなくなり、寿命が尽きるとき、お爺さんはそばに付き添って、「天国に行けよ」と声をかける。お婆さんは言う、「病気の体でたくさんの薪を運んでくれた。自分が死んでも私たちが困らないように」と。
 第3に農村の風景。それは日本の農村にも似ていて懐かしい。
(2009.12.29.シネマライズ)
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カティンの森

2009年12月28日 | 映画
 ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の映画「カティンの森」をみた。これは第2次世界大戦中の実話にもとづくフィクションだが、当時のポーランド社会の現実が色濃く反映されていると思われた。

 「カティンの森」事件は多くの方がご存知のことと思うが、要約しておくと、1939年に西はナチス・ドイツから、東はソ連から侵攻されたポーランドで起きた、ソ連によるポーランド将校の大量虐殺事件。事件は1940年4月に起きたが、東進したドイツが1943年に大量の遺体を発見して、ソ連の犯行と宣伝。その後ソ連がナチス・ドイツの犯行と逆宣伝。戦後になっても長い間真相は究明されず、タブー視された。

 映画は事件に巻き込まれたポーランド将校の家族たち――母、妻、子どもたち――を中心に、その不安、動揺、絶望を描くことで進む。事件そのものも最後に描かれる。

 この事件が映像化された意義はもちろん大きいが、私がとくに興味をひかれたのは、戦後のポーランド社会の描き方だった。市民はみんな事件がソ連によるものだとわかっていながら、ナチス・ドイツの犯行だとする当局の嘘に黙して語らない。嘘を嘘と言えない社会がどんなものか、異様にリアルな描写だった。

 具体的には、戦後の社会の中で3人の登場人物が死ぬ。一人はカティンの森の虐殺を免れた将校。戦後、ソ連の影響下にあるポーランド軍の中で位階をあげるが、嘘を嘘と言えない抑圧のもとで自己を責めて自殺する。
 もう一人は画家志望の青年。父親をカティンで殺され、履歴書に「ソ連によって」と書いたために、高校の卒業資格を拒まれる。直後に街頭でソ連のプロパガンダ・ポスターを引き裂いたために、官憲に追われて事故死する。
 最後の一人は兄をカティンで殺された若い女性。姉が戦後のポーランド社会に順応しているのにたいして、妹のこの女性は、兄の死はソ連によるものと言い続け、その墓碑を建てようとして官憲に捕らえられて処刑される。この姉妹はギリシャ悲劇のアンティゴネーとイスメーネーを下敷きにしている。

 音楽はポーランドの現代音楽の作曲家ペンデレツキが担当している。私は注目して出かけたが、控えめな使い方だった。プログラム誌によると、映画の撮影・編集終了後にペンデレツキの既存の作品の利用が決まり、ペンデレツキも「快諾した」とのこと。
 エンディングでは「ポーランド・レクイエム」の一節が使われている。「ポーランド・レクイエム」――私は何年ぶりかでこの週末にCDをききなおしてみた。ペンデレツキ自身の指揮、北ドイツ放送交響楽団の演奏。この曲にはレクイエムでは異例の「フィナーレ」がついている。先行する各部分が要約され、大きく盛り上がっていくのをきいて、私にはこれがカティンの森で殺されたすべての人を追悼するもののように感じられた。
(2009.12.22.岩波ホール)
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パリ・オペラ座のすべて

2009年11月10日 | 映画
 渋谷のBUNKAMURAで公開中のドキュメンタリー映画「パリ・オペラ座のすべて」をみた。原題を直訳すると「パリ・オペラ座のダンス、バレエ」となる。同劇場のバレエ部門の日常を記録した長編ドキュメンタリー。

 この映画は(当たり前かもしれないが)まず第1にバレエの映画だ。もっとも、映像の中心は稽古場風景であって、本番舞台ではない。稽古場で振付家やダンサーがどこをチェックし、解釈を深めるか(あるいは、稽古場でどのような葛藤があるか)―――そこに興味の中心がある。演目も古典のレパートリーからコンテンポラリーまで幅広い。むしろコンテンポラリーのほうに重心が傾いていて面白い。

 第2にこの映画はオペラ座で働くさまざまな裏方さんの物語だ。照明のチェックに余念のない人、年季の入った衣装スタッフ、トゥーシューズを洗って繕う人、ダンサーのための食堂で働く人、客席を掃除する人、屋上で蜜蜂を飼育している人(オペラ座の蜂蜜は名物だそうだが、これは、いつ、どのようにして始まったのだろう・・・)。オペラ座とはこれらの無数の人たちの総体だという気がしてくる。

 第3にこの映画は「オペラ座の怪人」(私は、ミュージカルはみていないが、原作の小説を読んだことがある)の素材となった原風景を明らかにする映画だ。複雑に入り組んだ裏の通路や階段、ボックス席の奥の暗がり、パリの街を見下ろす屋上、地下の水路――オペラ座の地下には水路がある。暗い水路に照明を当てると、そこに泳いでいる魚がみえる。幻想的な場面だと思っていたオペラ座の地下の忘却の川は、実際にあった。

 監督はフレデリック・ワイズマン。一切のインタビューやナレーションを入れずに、映像と音声の記録だけで160分という長丁場を押し通す。たとえば、稽古場風景を積み重ねて、最後に感動的な本番をもってくるというような(ドキュメンタリーにありがちな)ストーリー性はない。また、バレエ・ファンには綺羅星のような存在であるはずの振付家やエトワールを賞賛するものでもない。淡々とした日常を通してオペラ座の長い歴史を感じさせるもの、といったらよいだろうか。

 インタビューやナレーションを一切使わないドキュメンタリー映画は珍しい。私は類例として、今年の夏にみたレニ・リーフェンシュタールの「意志の勝利」を思い出した。あれはナチのプロパガンダ映画で、ひたすらヒトラーのカリスマ性にたいする陶酔を演出していた。
 一方、こちらは劇場の日常風景。スターを偶像視することはない。似たような手法でありながら、その意図によって180度ちがう作品が生まれるものだ。
(2009.11.05.BUNKAMURAル・シネマ)
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花と兵隊

2009年08月20日 | 映画
 第二次世界大戦が終結しても、日本に帰らず現地に残った未帰還兵がいた。その人たちを探してインタビューをしたドキュメンタリー映画「花と兵隊」が公開されている。監督は松林要樹という1979年生まれの若い人。インタビューは2006年から2008年にかけておこなわれているから、監督がまだ20代のころ。
 監督の語るところによれば、あの戦争は祖父の時代のことでは済まない、戦争のとき祖父たちはまだ20代、今の自分と同じ年代、自分はたまたま今の時代に生まれたが、あの時代に生まれていたら、自分が遭遇したはず、もしそうだったら自分はどうしたか、そう考えると他人事ではない、と(大意)。

 登場する未帰還兵は6人。そのうちビルマ(現ミャンマー)国内の少数民族カレン族の中に定住の場を見出した坂井勇さんと中野弥一郎さん、タイに定住した藤田松吉さんの3人が主要登場人物。映画の前半は、坂井勇さんの大家族の日常生活を中心として、未帰還兵のみなさんが現地で根を張り、幸せな家庭を築いたことが描かれる。

 後半ではトーンが変わる。藤田松吉さんがシンガポールで華僑の大虐殺にかかわっていたことを語りだす。
 「あそこでは、殺したということは、小さい、このくらいの子供を殺してしまったんだよ。支那人の子供、殺してしまったんだよ。・・・あれは支那人の子供よ。支那人の子供とか、かかあとか、なんとか、全部殺してしまったんじゃ。命令が出てきたから殺したんだよ。女も子供も。」(プログラム誌)

 話はこれにとどまらない。6人の中でもいちばん穏やかで、好々爺のようにみえた中野弥一郎さんが、「なぜ帰国しなかったんですか」と問われて、言葉につまり、ボソッと一言いう、「ひとにはいえないことがあるんです」。心の中の闇がかいまみられる瞬間。
 先に行くと、藤田松吉さんも同じ闇をかかえていることがわかる。
 2人の闇がなんであるかをここに書くことは、はばかられる。そんなことをすると、2人の苦しみを冒涜するように感じられるから。

 闇を生きてしまった2人には、戦後の日本に居場所はなかった。かれらを受け入れてくれたのは、妻を含めた現地の人たちと熱帯の自然。
 映画の最後に、藤田松吉さんが2001年に亡くなった妻ボーチャルさんの写真をみるシーンがある。若いころのその写真は、きれいだった。
 藤田さん自身も今年1月に亡くなった。大虐殺にかかわった罪は、未来永劫ゆるされることはないだろう。そういう存在になってしまった藤田さんに、死後も寄り添ってくれる妻がいること――そこにせめてもの救いを感じた。
(2009.08.19.シアター・イメージフォーラム)
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意志の勝利

2009年08月15日 | 映画
 何年か前に(調べてみたら2003年だった)、ドイツの映画監督レニ・リーフェンシュタールの死去が報じられた。私は驚いた。それは101歳という年齢もさることながら、歴史上の人物だと思っていた彼女が、まだ生きていたから。報道によれば、70歳を超えてからもスキューバダイビングに興じていたとのことで、いかにも彼女らしい意気軒昂さだ。

 レニ・リーフェンシュタールというと、ヒトラーに気に入られて、ナチのプロパガンダ映画「意志の勝利」やベルリン・オリンピックの記録映画「オリンピア」をつくった人として、その名を記憶していた。

 なかでも「意志の勝利」にはおぞましいイメージがあるが、その映画が今都内で上映されている(8月28日まで)。ドイツでは法律で上映が禁止され、日本でも劇場上映は1942年以来67年ぶりとのこと。上映の趣旨は「本作を所謂「反面教師」とし、二度とあのような歴史を繰り返してはならないという現代社会への警鐘」にするためとされている。

 この映画はドイツのニュルンベルクで1934年9月4日から6日間にわたっておこなわれたナチの党大会の記録。1934年といえば、その前年に政権をとったヒトラーの絶頂期のころ。市内のさまざまな場所で昼夜を分かたずおこなわれる各種の集会やパレードは、まさに一大政治ショーだったことがわかる。

 映画の冒頭は、雲の上を飛んでいる飛行機からみた空の映像。飛行機にはヒトラーが乗っているように感じられる(多分これは演出。実際は‥)。次第に高度を下げると、ニュルンベルクの街並みが俯瞰され、地上には党大会のために集まっている群衆がみえてくる。
 カメラが切り替わって、飛行場の滑走路。そこに悠然と飛行機が降り立ち、ヒトラーが姿をみせる。ピークに達する群集の熱狂。この場面で、私は不覚にも背筋がゾクゾクしてしまった。ちょうどワーグナーの楽劇のクライマックスで感じるような高揚感。これはまずいと気を引き締めた。
 空港からオープンカーでパレードするヒトラー。沿道に並ぶ人々。若い母親が子どもを抱えて歩み寄り、歓迎の花束を手渡す。笑顔でこたえるヒトラー。今の時代でも、どこかの全体主義国家がやりそうな演出だと感じた。

 以下、この調子で6日間の集会やパレードが描かれる。カメラは、ヒトラーその人よりも、熱狂する人々を追っている。ナレーションは一切なく、映像と音楽とヒトラーその他の演説の声だけ。ある意味では単調だが、その繰り返しが圧倒的なうねりになる。低い声ではじまり、やがて興奮して絶叫するヒトラーの演説の陶酔感は、この映画を通じて確実に当時のドイツ各地に伝わったことだろう。
(2009.08.13.シアターN渋谷)
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嗚呼 満蒙開拓団

2009年07月27日 | 映画
 この2週間ほどで映画を3本みた。どれも面白かったけれど、その中でも事実の重さで今もいろいろ考えさせられている映画が「嗚呼 満蒙開拓団」。岩波ホールで上映中のドキュメンタリー映画だ。

 満蒙開拓団については、詳しい人もいるだろうが、よく知らない人もいると思うので(実は私もよく知らなかった)、まずはその概要から。

 満蒙開拓団とは、日本の国策で旧満州(中国東北部)に移民した約27万人の人たちのこと。1931年(昭和6年)に満州事変が起きて、満州国が建国され、1936年(昭和11年)に発足した広田弘毅内閣が、政策の柱の一つとして、満州移民を推し進めた。
 ところが1945年(昭和20年)8月にソ連が参戦。追われて逃げる移民の中から多くの死者が出た。その逃避行のとき、足手まといになる子どもたちのうちには、路傍に放置された子もいた――それを中国人が引き取って育てたのが今の中国残留孤児。

 映画は残留孤児たちにたいするインタビュー記録。皆さんすでに相当な高齢になっているので、証言を記録する最後のチャンスだったかもしれない。
 具体例として、金丸キヌ子さんの証言を引用してみたい。

 「(兵隊さんから)『子どもを泣かすな、速く歩け』と言われても、年寄りとか子どもは速く歩けないんですから。お腹が空けば子どもは泣くし、それを抑えようと思っても無理な話ですよね。それで途中で、母は私たちを助けるために、5歳の妹を、隣のおばさんは子どもがいない人だったんですけどね、お願いしたらしいんですよ。それで最後に、お芋食べたい、食べたいと言っている最中に、私が気が付かないうちに連れて行かれたんですよね。それで、すぐ上の姉たちが、ずいぶん母を責めたらしいんですけれど、『どうしてさと子を』って叫んだところは、私も覚えています。」(プログラム誌23ページ)

 逃避行はこの世の地獄とでもいうべきものだった。今はただ「5歳の妹」と、(すでに亡くなっているであろう)「母」と「隣のおばさん」のご冥福を祈るばかりだ。

 事前にいろいろ調べていたら、私の家の近くの武蔵小山商店街(東京都品川区)からも、当時、千人あまりの満蒙開拓団が出たことを知った。皆さんのたどった道は、上に引用した証言と似たりよったりのもので、八百人あまりの人が亡くなったとのこと。今では商店街に隣接する朗惺寺(ろうせいじ)というお寺に慰霊碑が立っているらしい。
 そこで、昨日の夕方、慰霊碑をたずねてみた。こんなに身近なところに満蒙開拓団の歴史があったとは――。私は今までなにも知らずに過ごしていた。
(2009.07.20.岩波ホール)
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子供の情景

2009年04月23日 | 映画
 映画「子供の情景」がはじまったので、さっそくみに行った。シューマンのピアノ曲と同じ題名だが、とくに関係はない。映画はアフガニスタンの少女の物語だ。

 アフガニスタンのバーミヤンの岩山には、かつては巨大な仏像があったが、2001年にタリバンによって爆破された。あのときの衝撃はいまだに多くの人の記憶に残っていると思うが、その岩山には多くの小さな石窟があり、今も貧しい人たちが住んでいる。その中に6歳の少女バクタイもいる。
 映画の冒頭。バクタイは赤ん坊をあやしているが、なかなか泣き止まない。そのとき隣の男の子のアッバスが教科書を読む声がきこえる。「妹が寝付かないから静かにして」というが、一向にやめない。そのうちアッバスが小話を読み始める。バクタイはその面白さに引き込まれて、自分も学校に行きたいと思う。アッバスは「ノートと鉛筆がなければ行けない」という。そこで、バクタイの行動がはじまる。

 カメラはバクタイの行動を克明に追う。その密着度はドキュメンタリー映画のような感触をもつ。ときにはバクタイの眼に代わって、その眼がみている情景を伝える。
 監督はイランの女性ハナ・マフマルバフで、撮影開始のときは18歳、完成時点で19歳だったそうだ。若い年齢の強い思い入れが感じられる映像だ。

 映画の中ほどで、バクタイが荒野を歩いていくシーンがある。男の子たちが「俺たちはタリバンだ」といって行く手をさえぎる。かれらは戦争ごっこをして遊んでいるのだが、バクタイを処刑するといって、穴に入れる。各人の手には石がにぎられている。
 男の子の一人がバクタイに泥水を差し出す。「最後の水だ、飲め」。これが妙に生なましくて、私は悲しくなった。
 タリバン支配下では公開処刑、石打ち、鞭打ちが日常的におこなわれていて、それを娯楽のない市民が見物している――そういう話を読んだことがある。そうだとしたら、それがいかに子どもの心を荒廃させることか。

 アフガニスタンというと、私は1979年のソ連軍の侵攻を思い出す。家ではテレビをみない私は、昼食時の職場の食堂で、テレビに映し出された戦車の映像に釘付けになった。けれども情けないことに、いつしか忘れた。次に2001年3月にバーミヤンの仏像爆破のニュースが飛び込んできて心を痛めていたところに、同年9月11日の同時多発テロが起き、それが一気に多国籍軍のアフガニスタン侵攻に結びつくさまを暗鬱な気持ちで見守った。けれどもその後に起こったイラク戦争によって、またアフガニスタンのことは忘れた。
 私は、映画からの帰り道、チラシにのっている可愛い顔がしきりに眼に浮かんだ。あの顔は、ほんとうは、私の無理解と無関心と無為をみつめていると思ったら、胸が痛んだ。
(2009.04.22.岩波ホール)
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シリアの花嫁

2009年04月01日 | 映画
 岩波ホールで上映中の映画「シリアの花嫁」をみた。新聞の紹介記事でゴラン高原を舞台にした映画だと書いてあったので、ゴラン高原の今を知りたいと思ったから。

 ゴラン高原は、かつてはシリア領であったが、1967年の第三次中東戦争でガザ地区やヨルダン川西岸地区とともにイスラエルが占領し、今にいたっている地域だ。日本からも国連平和維持活動の一環として自衛隊が派遣されている(なお、蛇足ながら、麓にはイエス・キリストの活動の舞台になったガリラヤ湖がある。)
 今年に入って、オバマ政権発足直後、米政府高官がシリアを訪問したことが報道されて、停滞する中東和平の打開の動きが期待されたが、昨日はイスラエルに右派政党主導政権が発足するなど、現実は一筋縄ではいかない。

 さて、ゴラン高原には昔からの住民がいて、イスラム教の少数派であるドゥルーズ派の人々も多い。かれらはシリアへの帰属意識が強く、イスラエルの占領にたいして反感をもっている――そういうことを私は今まで知らなかった。

 映画の画面には古い集落が出てきて、背後には赤茶けた大地が広がる。ロケ地がどこかはよく分からないが、荒涼としたその風景はゴラン高原のイメージと一致する。

 映画は、ドゥルーズ派の住民モナが、シリアの親戚に嫁ぐ日を描いている。イスラエルとシリアの間には国交がないので、一度国境を越えてしまったらもう戻れない。モナとその家族である父、母、姉、長兄、次兄、さらにその夫や妻、子供、恋人――それらの人々の喜びと悲しみと、それぞれの抱えている問題が、ユーモラスに描かれながら、次第に国境を越える時間、午後3時が迫ってくる。いざ国境を越えようとしたとき、思いがけない事態が起きる。
 これから映画をご覧になるかたもいると思うので、このあとの展開は控えておくが、ハラハラすることはまちがいない。そして最後のシーン、これをどう受け止めるかは、人によって分かれるだろう。明るい未来に向かって一歩を踏み出したのか、あるいは無残な悲劇に転じる直前で幕が下りたのか。結末を観客にゆだねていること、それはこの映画の優れた点だ。私の見方はどうかと言えば、悲観的にしかなれないが。

 思えば、ゴラン高原以外にも、人為的な「国境」の不条理さは存在する。身近なところでは、朝鮮半島の38度線の問題もそうだ。私も見学に行って、軍事的緊張を肌で感じた。
 東西ベルリンを隔てる壁が崩れたのは1989年、わずか20年前のことだ。今でもベルリンでは壁の一部や検問所が残されている。歴史を忘れないために。
 ゴラン高原も38度線も、早く過去のこととして語れる日が来るとよいのだが。
(2009.03.30.岩波ホール)
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ディファイアンス

2009年03月07日 | 映画
 今、公開中の映画「ディファイアンス」をみた。ディファイアンスとは抵抗という意味。第二次世界大戦中の実話をあつかった映画だ。

 (ストーリー)
 1941年8月、ドイツ軍がソ連(現ベラルーシ)に侵攻し、ユダヤ人狩りがはじまる。間一髪のところで逃げ出したビエルスキ3兄弟は森に隠れる。やがてほかのユダヤ人たちも合流し、森で共同生活をはじめる。ドイツ軍との戦い、飢えと寒さとの戦い、味方であるはずのソ連軍のユダヤ人蔑視との戦い、内部の不満分子との戦い、その他のもろもろの戦いに耐えながら、かれらは森で生活し、ついに1944年7月の解放を迎える。そのとき1,200人の人たちが生き残っていた。

 原作はアメリカのコネチカット大学教授のネハマ・テックの著書「ディファイアンス ヒトラーと闘った3兄弟」で、1993年に出版されたそうだ。歴史の中に埋もれているエピソードを記録する作業が今も続いていることは尊いと思う。また映像にして広く普及させようとする人がいることも尊い。この映画には多くの人々のこころざしが結晶している。

 映画は、路線をめぐる長男トゥヴィアと次男ズシュの葛藤を軸にしてすすむが、終わり近くになって、リーダーとしての重圧に疲れきったトゥヴィアに代わって、それまで影の薄かった三男アザエルが人々を鼓舞する。
 その場面を思い返すと・・・ドイツ軍の追跡を逃れて森の端まできたユダヤ人たちの前に、大きな川が立ちふさがる。呆然とするユダヤ人たち。
 アザエル「川を渡ろう。モーゼがエジプト軍に追われたとき、神は奇跡を起こして紅海をひらいた。だが、今、奇跡は起きない。ならば自分たちで奇跡を起こそう。」
 人々「けれども、老人や病人はどうするのだ。」
 アザエル「強いものが助ける。一人も見放さない。」
 いつの間にかアザエルはたくましく成長していた。私は熱いものがこみ上げてきた。プログラムの記事によれば、この展開は脚本にはなかったもので、途中で監督が思いついたそうだ。そこには制作現場の熱気が感じられる。

 これはまったくの偶然だが、私は2月22日のブログでイタリアの作家プリーモ・レーヴィの小説「今でなければ いつ」の感想を書いた。映画にはこの小説を連想させるディテールがいくつもある。原作または脚本が参考にしていることはまちがいないと思う。
 一つだけ例示するなら、ある町のゲットーから多くのユダヤ人を救出して、森に迎え入れる場面がある。各人の職業をきくと、あるユダヤ人が時計修理工だと答える。そこで、故障した鉄砲の修理を頼むと、器用に直す。おそらくこの場面は、レーヴィの小説の主人公の時計修理工メンデルを示唆している。
 小説は1982年にイタリアで出版され、その後、アメリカ、フランス、ドイツ、日本で翻訳された。ユダヤ人のパルチザン部隊をえがいた偉大な先行作品。映画にはそのオマージュが感じられる。
(2009.03.05.TOHOシネマズシャンテ)
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チェチェンへ

2009年01月10日 | 映画
 東京に初雪のふった日の夜、冷たい雨の中を映画に行った。職場を出るときは、本当はそのまま家に帰りたかったが、自らを励まして足をはこんだ。
 映画は「チェチェンへ アレクサンドラの旅」。ある新聞の記事に主演がガリーナ・ヴィシネフスカヤだと書いてあったので、俄然みたくなった。ヴィシネフスカヤは往年の大歌手だ。かつてCDできいたロシアの作曲家の歌曲やブリテンの「戦争レクイエム」が記憶に残っている。気の強そうな美人だったが、その人が80歳のときに撮った映画とのこと。80歳のヴィシネフスカヤはどうなっているのだろう・・・。

 あらためて紹介するまでもないかもしれないが、この映画はチェチェンに展開するロシア軍の駐屯地に、ヴィシネフスカヤの扮する祖母アレクサンドラが孫の兵士を訪れる話だ。汗と埃と奇妙な倦怠が充満するキャンプの中に身を置いて、戦争の現実を知る。やがてキャンプの外の市場でチェチェン人の女性と親しくなり、ふたりは、男たちはときには戦うが、女はみな姉妹だと語り合う。
 この映画では、こういったディテールがていねいに描かれる。戦争の影が色濃く落ちるが、どこかに詩情が感じられる。それは、殺風景なキャンプ、市場の雑踏、半ば破壊されたチェチェンの集合住宅などの画面が、セピア色で撮られているため、古い写真のような懐かしさを感じることが一因だろう。
 さらに、より本質的には、こまやかな人と人との交流があるからだ。その中心にいるのは、アレクサンドラだ。ちょっと気難しいが、繊細な感性を失わない人物。私は久しぶりに人間の尊厳という言葉を思い出した。
 アレクサンドラを演じる80歳のヴィシネフスカヤは、昔の面影を残してきれいだった。
 この映画は、大きな感動よりも、ひっそりと静かな感動をよぶ。

 それにしても、今この映画をみると、どうしても年末以来のイスラエルによるガザ地区侵攻を連想する。ガザ地区だって、イスラエルとパレスチナの女同士、あるいはひょっとすると男同士であっても、個人のレベルなら交流は可能だろう。けれども政府間の対立になると、和解は困難にみえる。
 でも、絶望することはないのだろう。私は元旦のウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを思い出す。指揮者のバレンボイムが、「2009年が世界に平和、中東に人類の正義が訪れる年になることを望む」と語ったときのjusticeという言葉が、強く印象に残った。たんなるpeaceよりも強い意志がこめられていると感じたからだ。
 私はこの言葉を次のように理解した、イスラエルにもハマスにも正義はある、むしろ今は正義と正義のぶつかり合いだ、けれども、それぞれの正義をこえた正義を見出さなければならない、と。コンサートは世界中に同時中継されている。バレンボイムはそれを十分に意識して、英語で語りかけたのだと思う。
(2009.01.09.ユーロスペース)
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帝国オーケストラ

2008年11月10日 | 映画
 昨日の東京は、小雨のふる寒い日曜日だった。私は、傘をさしながら、渋谷の映画館に向かった。今上映中のドキュメンタリー映画「帝国オーケストラ」をみるためだ。この映画は、ヒトラーが政権をとった1933年から敗戦の1945年までのベルリン・フィルを、当時の団員であった生存者二人の証言を中心にして描いている。淡々としたトーンの映画だったが、一夜明けた今もその余韻が残っている。

 証言をした二人は、現在96歳の元ヴァイオリン奏者と、同じく86歳の元コントラバス奏者だ。二人の語ることは、一切のディテールを省くなら、当時の自分たちは政治的には未熟だった、自分たちは積極的にナチスに加担したことはない、自分たちの演奏する音楽は、それをきく人びとに、当時のひどい混乱を一時忘れさせることができたはずだ、ということだ。
 私は二人の良心を疑わないが、だんだん暗澹たる思いになった。これは今でも繰り返されている私たちの一般的な態度なのではないかと思ったからだ。ある一つの集団の中にいて、自らは無名の存在になることによって身を守り、外部で進行している不正、暴力に目を覆う。そのことが不正、暴力を助長する。

 また、この映画では当時の記録映像がふんだんに盛り込まれていて、それらも興味深かった。とくに私が驚いたことは、当時は毎年ヒトラーの誕生日に式典が催され、ベルリン・フィルが祝賀演奏をしていたことだ。フルトヴェングラーがベートーヴェンの「第九」を指揮し、演奏終了後万雷の拍手をうけながら、ナチスの宣伝大臣ゲッベルスと固い握手を交わしている映像は、やはりショックだった。フルトヴェングラーのナチス体制下の行動は、今では擁護される傾向にあるが、このような映像をみると複雑な思いがする。

 ほんとうは、この問いは控えておきたいのだが、あえていうと、音楽とはなんだろうかと考えてしまった。私は音楽が好きで、音楽は人生そのものだから、音楽に罪はないと考えたい。もっとセンチメンタルにいうなら、音楽は利用されただけだと考えたい。けれども、ほんとうにそうなのだろうか。
 上述の老ヴァイオリン奏者が、負傷兵の収容施設で慰問演奏したことを回想するシーンがある。娘か看護師かわからないが、大柄の女性に支えられながら、今でも残っている荒廃したその施設を訪れて当時を語る姿は、苦渋に満ちていた。
 そのときの演奏は、負傷兵を慰めただろう。それも音楽だ。だが、ファシズム礼賛に一役買った事実も消しがたい。

 この映画は2007年のベルリン・フィル創立125周年の記念式典で上映されたという。ドイツ人の過去の意味を問い続ける姿勢に救いを感じる。
 昨日、私がみたときの映画館の観客の入りもわるくなかった。私の整理番号は62番だったので、おそらく80人くらいは入っていたのではないか。こんなに地味で暗い映画に多くの人が集まってくることに希望を感じる。
(2008.11.09.ユーロスペース)
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