Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

2人のB

2008年09月23日 | 音楽
 読響が常任指揮者スクロヴァチェフスキの指揮で次のプログラムを演奏した。
(1)ブラームス:ピアノ協奏曲第1番(ピアノ独奏:ジョン・キムラ・パーカー)
(2)ブルックナー:交響曲第0番
 ブルックナーの最後の音が消え、一瞬の静寂の後、満場の拍手が起こったとき、スクロヴァチェフスキは両手でガッツポーズをした。今年85歳になる老巨匠のガッツポーズはいい光景だった。

 ブラームスでは意図的に荒削りの音楽づくりをしていた。第1楽章冒頭のホルン・セクションの強奏はそのよい例だ。ピアニストも骨太の演奏でオーケストラに応えていた。
 ブラームスが25歳のときに初演したこの曲は、ブラームスの青春の表白だが、第1楽章はとくに精神的な危機を感じさせる。それは、この曲の作曲中にシューマンが亡くなり、未亡人となったクララに恋したことに直結する。ブラームスは本気だった。
 第2楽章は穏やかなアダージョ。終結部でピアニストは驚異的な集中力と美しさをもつ最弱音をきかせた。
 ブラームスは第2楽章についてクララに「これはあなたの肖像だ」と手紙にかいた。たしかにここには20代前半の青年が14歳年上の女性にいだく思慕が感じられる。その想いはあくまでも理想化されたものだ。クララが青年を受け止められなかったのは当然だ。
 第3楽章は一転して情熱的なロンドだが、私は以前から物足りなさを感じていた。どこか軽いのだ。その印象は昨日も変わらなかった。

 次のブルックナーは予感のとおり精緻きわまる演奏だった。第1楽章の冒頭主題から、すべての声部のリズムが整えられ、機械のように絡み合う。アーティキュレーションの統一と徹底が、陰影豊かなニュアンスを生んだ。粘らないリズム感がやがて音楽に揺るぎない流れを作り出した。
 第2楽章も同様で、途中から音楽が滔々と流れだし、精神的な充実を感じさせた。私見ではこの楽章は全曲中もっとも霊感に乏しいのではないかと危惧するが、それをこれだけ高揚させるのは驚くべきことだ。
 アタッカで入った第3楽章は、前2楽章から当然期待される水準を満たす演奏。
 第4楽章では豪快に全曲を締めくくった。

 第0番という珍しい番号の由来は諸説あるが、最近では、第1番の後にかかれ、ほんらいは第2番となるはずの曲だったが、当時のウィーンフィルの首席指揮者に「第1主題はどこにあるのか」といわれて自信をなくし、その後にかいた曲を第2番としたためだとされている。なおブルックナーは価値を認めない曲は廃棄したが、この曲は生き残った。
 この曲も、昨日のような演奏できくと、ブルックナー初期の作品として他の曲にすこしも見劣りがしないと感じられた。もっとも今、世界中でこの曲をスクロヴァチェフスキほど意義深く演奏できる指揮者は数少ないだろう。なお忘れずに付け加えておくが、読響もよくついていった。

 それにしてもブラームスとブルックナーという2人のBを並べたプログラムは味があって、思わずニヤッとした。同じ時代にウィーンに住んだ2人のBは、ハンスリックという論争好きの音楽評論家がいたために、敵味方に分かれてしまった。ある日、双方の友人たちが相談して、2人をレストランに招いた。はじめはぎこちなかったものの、すぐに打ち解けてなごやかな会になったという。
 2人の仲がそれ以上親密になることはなかったが、その後もブルックナーの演奏会にはブラームスがよく姿をみせ、ハンスリック一派の妨害行動にはわれ関せず、最後まで熱心にきいて拍手を送っていたという。

 昨日の演奏会をききながら、私はふと天上界で演奏をきいている2人のBを想像してしまった。今では生前の桎梏もなく、仲良く並んできいている2人。ブラームスのピアノ協奏曲第1番では、こんな会話を思い浮かべた。
 ブルックナー「なかなかうまいですな。」
 ブラームス「いやいや若書きで‥。」
 ではブルックナーの交響曲第0番ではどのような会話が想像されるだろうか。演奏が始まって間もなく、私の頭にはこんな会話が浮かんだ。
 ブラームス「なかなかのものですな。」
 ブルックナー「どうやら廃棄しなくてよかったようですな。」
(2008.09.22.サントリーホール)
コメント (2)
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