Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ピーター・グライムズ

2008年09月22日 | 音楽
 札幌交響楽団が音楽監督尾高忠明の指揮により、ベンジャミン・ブリテンのオペラ「ピーター・グライムズ」を演奏会形式で上演した。その心意気やよしである。

 まずはオーケストラの感想から。オーケストラはブリテンのスコアを誠心誠意、音にした。その真摯な姿勢は大多数の聴衆から好感をもって受け止められたはずだ。もちろん私もその一人である。音色が幾分モノトーンで、これは今後の課題だが、このオペラでは荒涼とした心象風景に共振していた。

 このオペラは英語でかかれているので、英語の発音が鍵だ。その意味では、ピーター・グライムズを救おうとする女性教師エレン・オーフォード役の釜洞祐子の英語が、もっともききとれた。ほかの歌手にはさらなる発音の明瞭さを求めたい。
 漁師ピーター・グライムズ役は福井敬だった。英語の発音には問題を感じたが、抜きんでた張りのある声で、他の人々とは溶け合わない特異なキャラクターを表現していた。この役はブリテンの他のオペラと同様に、ピーター・ピアーズの創唱の記憶が鮮烈で、どうしても比べてしまう。ピーター・ピアーズに比べると、太めで、男性的な声だ。艶のある中性的な声ではない。ブリテンのオペラや歌曲は、私生活のパートナーでもあったピーター・ピアーズを想定してかかれているので、その創唱を超えることは容易ではない。
 問題を感じたのは、退役船長バルストロード役の青戸知だ。舞台上でやたらと動き、コミカルでさえある役作りは、どういうわけだろう。長年の潮風が身にしみこんだ、物事に動じない、ピーター・グライムズに死を促す老船長は、どこに行ったのだろう。

 ピーター・グライムズを追い詰め、死に至らしめるという意味で、村人たちを表す合唱は、この悲劇の根幹にある。妄信的な大衆の恐ろしさを、この日の合唱はよく表現していた。合唱は、札響合唱団、札幌アカデミー合唱団、札幌放送合唱団の三者構成。

 指揮の尾高忠明は、腰をすえて、克明にこのオペラを構築した。もともと個性を売り物にするタイプではないが、近年、成熟のときを迎えている。このような指揮者が街の音楽生活を支えている姿は好ましい。

 当日の演奏では、第2幕第1場の後の間奏曲「パッサカリア」に注目した。全体としてはクールで、主知的な運びだったが、「パッサカリア」の部分だけは異様に熱気がこもっていた。低弦のピチカートで基本音型が提示され、独奏ヴィオラが上声部をつけ始め、さまざまな楽器に受け渡されながら、全管弦楽の狂おしい咆哮に突入する、そのめくるめくような熱気。この曲は、純粋音楽としてきいても、若き日のブリテンのかいた最上級の音楽だ。だが、それをオペラのコンテクストの中に置いた場合、どういう意味をもつのだろう、この疑問はかねてから私の中にあるが、当日の演奏をききながら、また思い出した。

 翌日と翌々日、私は北海道を旅しながら、列車の中で漠然と考え続けた。チラシを見直すと、副指揮者の新通英洋が「少年の苦難のパッサカリア」とかいていた。スコアにはそうかいてあるのだろうか。でも、もしそうだとしても、ただちに信じられるのか。
 「苦難」の意味が問題だが、台本で示唆されている少年虐待の苦難だとすれば、ピーター・グライムズに虐待される少年を表すことになる。けれども音楽にこめられた熱気は、虐待からはみ出す何かを感じさせる。
 ブリテンは、原作となった詩から、同性愛、あるいは少年愛を示唆する箇所を執拗に消したといわれる。20世紀の中ごろでさえ、同性愛は厳然としたタブーだったのだ。けれどもブリテンは、みずからの性向にこだわった。そういうブリテンであるなら、あの「パッサカリア」は、少年にたいする欲望の高まりと内面の緊張を表すのではないか、そう考えたら得心がいった。そう考えればドラマが一気に緊張のピークにたっする第2幕とつながると思った。
(2008.09.19.札幌コンサートホール)
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