Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

今でなければ いつ

2009年02月22日 | 読書
 プリーモ・レーヴィの「今でなければ いつ」を読んだ(竹山博英訳)。レーヴィの作品を読むのはこれで5作目。今までに、「アウシュヴィッツは終わらない」(原題「これが人間か」)、「休戦」、「周期律」、「溺れるものと救われるもの」を読んだ。そのほか、関連するものとして、徐京植の「プリーモ・レーヴィへの旅」も読んだ。

 レーヴィは1919年にイタリアのトリノで生まれたユダヤ人。大学で化学を学ぶが、ナチス侵攻によりレジスタンス活動に参加する。43年12月に捕らえられ、アウシュヴィッツに送られるが、45年1月のアウシュヴィッツ解放により生還した。
 生還後、自らの体験をかいた「アウシュヴィッツは終わらない」で、強制収容所の存在を世に知らしめた。その後、化学者として働くかたわら、作家活動の幅を広げるが、87年に自宅アパートで身を投げて自殺。多くの人に、なぜ?という疑問を残しながら。

 私は数年前に「溺れるものと救われるもの」を読んだ。これは86年に出版された論文集で、人間の深淵に触れる思索の書だ。その思索の深さに衝撃をうけた私は、以後、継続的に読むようになった。
 「今でなければ いつ」は、82年に出版された長編小説だが、ここにも、レーヴィの思想と感性が色濃く投影されている。

 この小説はユダヤ人のパルチザン部隊の物語だ。森や沼地をソ連(現ウクライナ)からポーランド、そしてドイツへと転戦する彼らの姿は、エジプトの圧制を逃れて約束の地を目指す旧約聖書の出エジプト記を連想させる。あるいは、戦争という暴風雨の中でさまようノアの箱舟のようでもある。
 旅は苦しく、果てしがない。けれども、物語のどこかに明るさがあり、人間への信頼がある・・・飢えと死に明け暮れる毎日であるにもかかわらず。

 ヨーロッパ社会における異質な存在としてのユダヤ人、そういう出自をもつことは、どんなに困難な人生を強いることか。他者の蔑みの視線を感じ、排除される危険に身をさらしながら生きるとは、どういうことか。
 そのとき銃を手にして立ち上がったユダヤ人たちがいたと、戦後何年もたって聞いたレーヴィが、自身、驚きをもって書いた物語がこれだ。歴史の底に沈みこみそうなエピソードに形をあたえ、ひとつの英雄伝説を創造した。

 物語は、終結に向かって、ドイツ軍の崩壊、船でパレスチナに渡ろうとするユダヤ人部隊のイタリア入国へと進むが、その過程で二重三重の暗い影がさす。物語は彼らがイタリアで停滞している状態のまま終わる。約束の地に向かう旅の途中で終わる出エジプト記のように。
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