Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

フィガロの結婚

2010年10月14日 | 音楽
 新国立劇場の「フィガロの結婚」。私は2003年10月のプレミエをみた。ノヴォラツスキー監督の就任第1弾だった。私はそのとき新時代の訪れを感じた。このプロダクションは2005年、2007年と再演を重ねて、今回で4度目になる。シンプルな舞台なので低予算でできるという面はあるだろうが、それだけではないと思う。

 今回7年ぶりにみたが、細かい部分は忘れていた。お陰で初めてみるような新鮮さがあった。結論から先にいうと、これは今までみた「フィガロの結婚」のなかで一番よいプロダクションだと思った。

 多くのかたがご覧になっているわけだが、あらためて描写すると、まず舞台上には抽象的な四角い空間がある。序曲が始まってしばらくすると、奥の面が開いて、白いダンボール箱がいくつも運び込まれる。「ああ、そうだった」と思い出した。前回は気がつかなかったけれど、四角い空間はダンボール箱の巨大な内部という趣向だ。

 アンドレアス・ホモキによるこの演出は、網の目のように張り巡らされたエロスの交錯だ。伯爵はスザンナだけではなく、バルバリーナにも色目をつかっている。ケルビーノはもちろん伯爵夫人、スザンナ、バルバリーナと相手かまわず。伯爵夫人でさえ、第2幕でケルビーノに女装をさせるとき、官能が燃え上がる。極めつけは第3幕の幕切れ。伯爵はバルバリーナを犯し、金を投げ与える。呆然としたバルバリーナは、地面にへたり込んで第4幕冒頭の有名なアリアを歌う。

 上品にとりすました舞台ではなく、生々しい官能に満ちた舞台。こういう舞台をみていると、モーツァルトの音楽には意外に怒りの音楽が多いことに気づかされる。たとえば第1幕ではドン・バルトロの復讐のアリアはもちろんのこと、フィガロの「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」にも怒りがあふれている(ちなみにこのアリアでは、男たちがケルビーノを集団リンチする演出になっていた)。以降、伯爵とフィガロはいうまでもなく、スザンナにも怒りの場面がある。

 怒りや復讐が、満たされない――あるいは裏切られた――官能の発露だとするなら、官能の喜び――あるいは喜びへの期待――と同じ根をもつ感情だ。だからなのか、私はこのオペラをみながら、あらゆる音楽のなかで一番元気なのはモーツァルトの音楽ではないかと思った。

 若手の歌手を集めた外国勢にくらべて、ベテラン中心の日本勢は分が悪かった。そのなかではバルバリーナ役の若手、九嶋香奈枝(くしま・かなえ)さんに元気があった。若い指揮者のミヒャエル・ギュットラーは、この公演だけではよくわからなかった。
(2010.10.13.新国立劇場)
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