Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

古井由吉の遺稿

2020年05月12日 | 読書
 作家の古井由吉が2月18日に亡くなった。亡くなる直前まで執筆を続けた。その遺稿が「新潮」5月号に掲載されている。題名はない。「新潮」もただ「遺稿」としている。原稿用紙30枚に清書され、最後まで推敲を続けた跡が残されていた。同誌には2019年11月2日撮影の古井由吉の写真が掲載されている。机にむかい原稿用紙に何かを書いている。この遺稿だろうか。細い腕が老人らしい。だが、原稿用紙を見つめる眼は鋭い。最後まで現役の作家だった。

 その遺稿は小説と随筆のあいだにある。位置的には随筆に近い。2019年9月中旬から10月下旬までの日々の想いが綴られている。その時期は台風15号、19号など災害が多かった。わたしも記憶に新しい。遺稿に綴られた日々とわたしの記憶とが重なり、「古井由吉はその頃こんな日々を送っていたのか」と感慨深い。

 ショックだったのは次のくだりだ。多少長くなるが、引用したい。

 「彼岸を過ぎても秋らしい天気にはならず、台風がまた発生して西のほうに向かうその影響か、南の風が吹きこんで炎暑の日もあり、涼しくなって気分の変わるのを待っていたが、日数もすすんで、夏の疲れの回復も急には望めないようなので、取りあえず次の仕事にかかって幾日かすると、秋の眠りの浅瀬にかかるところで、どこからとも出所の知れぬ文章が瞼の内に浮かんで、その晦渋な意味がようやく読み取れそうで、こんなに端的なことだったのか、と安堵の息を吐くと、束ねた(引用者注:つかねた)つもりの意味がばらばらに散ってしまい、そんなことを幾度かくりかえした末に、眼も頭も疲れはてて目を覚ます。」

 この中の「束ねたつもりの意味がばらばらに散ってしまい」という箇所にショックを受けた。前作の「この道」(8篇の短編小説からなる連作長編)では、古今東西の書籍を逍遥して、気になる箇所の意味をさぐる動きがあった(その動きが日々の淡々とした営みに挟み込まれた)。それが「ばらばらに散ってしまい」とはどういうことか。そんなことがあってはならない‥と胸が痛む。

 上記の引用文はワンセンテンスだ。平易な言葉で淀みなく、まるで植物が茎をのばすように、どこまでものびていく。どこにいこうとしているのか。それは作者にもわからない。作者の手から紡ぎだされる言葉が、自らの生命でのびていく。その言葉が心の襞にふれる。それは作者にも発見だったのではないか。

 古井由吉はきわめてユニークな文体を手中にした。その文体がペースを乱さずに続く。遺稿には淡々とした味わいがあるが、「この道」には濃密さがある。老人の「意識の流れ」のようにも読める。読者はそれに身を委ねる。
コメント
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