Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

大岡昇平「野火」

2020年06月08日 | 読書
 大岡昇平の「野火」は読んだことがなかった。それを今回読んだのは、太平洋戦争での南方戦線の状況を知りたかったからだ。読んだ感想は、久しぶりに文学らしい文学を読んだというものだった。文学でなければ描くことのできない人間の真実、極限状態におかれた人間の裸像を描いた作品だと思った。

 名作なので、すでに多くのかたが読んでいるので、ネタバレなど気にせずに感想を書けばよいのだが、(わたしのように)これから読む人もいるわけだから、そのような人が初めて読む楽しみを奪わないように、気をつけて以下を書きたい。

 ネタバレを気にするのは、この作品がアッと驚く展開を見せるからだ。テーマと構成とその両面で驚くべき展開を見せる。意外なテーマが現れ、予想外の構成に衝撃を受ける過程は、文学の楽しみそのものだ。

 文学の楽しみとはいったが、これは明るく楽しい作品ではない。時は太平洋戦争末期の1944年11月。場所はフィリピン諸島のレイテ島。「私」こと田村一等兵は喀血をして野戦病院に送られる。だが、わずかな食糧しか持っていないため、3日後に病院を追い出される。止むを得ず中隊に戻る。だが、中隊でも「病院に戻れ。入れてくれなかったら、何日でも座り込め。それでだめだったら死ね。手りゅう弾は無駄に受領しているのではない」と追い返される。田村一等兵は行き場を失い、山中での敗走の日々が始まる。食料はすぐに尽きる。山で出会う日本の敗残兵は米兵よりも危険だ。そんな陰惨なサバイバル物語がこの作品。

 テーマは何かと正面から問えば、多層的な読み方が可能だというのが正解だろうが、あえていえば、究極のテーマは信仰の問題だろう。生きるか死ぬか、いや、むしろ絶対的に避けがたい死を先延ばしにしながら、本能そのものと化して敗走を続ける主人公に、信仰も何もないのだが、その主人公が、無意識のうちに、何かが自分を見つめていると感じる。その感覚は何か。その感覚はどこから来るのか。そのテーマが中盤から低く鳴り始め、実体がわからないまま、終盤にかけて大きく鳴り響く。

 それが信仰の問題だとわかるためには、物語の構成上、驚くべき仕掛けが必要だったことが、最後にわかる。その仕掛けを考案した大岡昇平に心からの称賛を捧げたい。

 信仰の問題はアイデンティティを揺さぶる。平時はともかく、何か究極の体験をしたときに、思いがけず、自らの内なる信仰心を感じる。その見事な例がドストエフスキーの作品に見出されると思うのだが、それがどの作品のどこだったか、残念ながら思い出せない。日本文学では大岡昇平の本作がそのもっとも本格的な作例だろう。
コメント
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