山田和樹指揮の読響の定期演奏会。協奏曲に予定されていた演奏家が来日できず、それにともない独奏者と曲目が変わった。とはいえ、プログラム全体の流れが一新し、筋の通ったプログラムになった。
1曲目はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。絶えず細かいドラマが生起する演奏だ。凡百の演奏とは一線を画す。実感的には、いままで聴いたことがない演奏と目をみはる思いだった。フルートはもちろん、ホルンも弦も美しい音色だった。
2曲目はコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏は小林美樹。甘美な曲だが、その割に小林美樹の演奏は耽溺することなく、ばりばり弾く。わたしには違和感があった。この曲の濃厚さが薄れ、それに代わるものがあればいいが、隙間を生じたまま終わった。
この曲ではチェレスタが使われるが、アンコールでは山田和樹がそのチェレスタを弾き、武満徹の「めぐり逢い」が演奏された。ノスタルジックな、甘い感傷にひたるような曲だ。コルンゴルトで抱いた満たされない思いが癒された。それにしても、ヴァイオリンとチェレスタの二重奏は美しい音色だった。
3曲目は諸井三郎の交響曲第3番。諸井三郎が1943~44年に太平洋戦争の戦況悪化を眼前にして、日本の敗戦とみずからの死を覚悟して書いた曲だ。わたしは2017年のサントリーホール・サマーフェスティバルで初めて聴いた。緻密に書かれ、深々とした情感を湛えたこの曲に驚愕した。演奏は下野竜也指揮の東京フィルだった。
それ以来二度目だが、ロシアのウクライナ侵攻という、現に戦争が起きている状況で聴くには重すぎた。それはわたしの問題かもしれない。わたしの精神がダメージを受けているのだろう。一方、演奏だが、第2楽章まではともかく、最終楽章の第3楽章は、下野竜也指揮東京フィルの演奏よりも重々しく、何かがわたしにのしかかるような感覚を覚えた。それもわたしの側の問題だろうか。それとも演奏のためだろうか。
この曲の楽章構成は、第1楽章が序奏と主部、第2楽章がスケルツォ、第3楽章が緩徐楽章となっている。この楽章構成はブルックナーの交響曲第9番と似ている。当夜の西耕一氏のプログラムノートにも、2017年のサントリーホール・サマーフェスティバルのときの片山杜秀氏のプログラムノートにも、その旨の記載はないが、わたしにはブルックナーの交響曲第9番の楽章構成が参照されているように思える。もっとも第3楽章の末尾は、ブルックナーのような浄化された響きではなく、人生肯定的な響きが鳴る。
(2022.3.8.サントリーホール)
1曲目はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。絶えず細かいドラマが生起する演奏だ。凡百の演奏とは一線を画す。実感的には、いままで聴いたことがない演奏と目をみはる思いだった。フルートはもちろん、ホルンも弦も美しい音色だった。
2曲目はコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏は小林美樹。甘美な曲だが、その割に小林美樹の演奏は耽溺することなく、ばりばり弾く。わたしには違和感があった。この曲の濃厚さが薄れ、それに代わるものがあればいいが、隙間を生じたまま終わった。
この曲ではチェレスタが使われるが、アンコールでは山田和樹がそのチェレスタを弾き、武満徹の「めぐり逢い」が演奏された。ノスタルジックな、甘い感傷にひたるような曲だ。コルンゴルトで抱いた満たされない思いが癒された。それにしても、ヴァイオリンとチェレスタの二重奏は美しい音色だった。
3曲目は諸井三郎の交響曲第3番。諸井三郎が1943~44年に太平洋戦争の戦況悪化を眼前にして、日本の敗戦とみずからの死を覚悟して書いた曲だ。わたしは2017年のサントリーホール・サマーフェスティバルで初めて聴いた。緻密に書かれ、深々とした情感を湛えたこの曲に驚愕した。演奏は下野竜也指揮の東京フィルだった。
それ以来二度目だが、ロシアのウクライナ侵攻という、現に戦争が起きている状況で聴くには重すぎた。それはわたしの問題かもしれない。わたしの精神がダメージを受けているのだろう。一方、演奏だが、第2楽章まではともかく、最終楽章の第3楽章は、下野竜也指揮東京フィルの演奏よりも重々しく、何かがわたしにのしかかるような感覚を覚えた。それもわたしの側の問題だろうか。それとも演奏のためだろうか。
この曲の楽章構成は、第1楽章が序奏と主部、第2楽章がスケルツォ、第3楽章が緩徐楽章となっている。この楽章構成はブルックナーの交響曲第9番と似ている。当夜の西耕一氏のプログラムノートにも、2017年のサントリーホール・サマーフェスティバルのときの片山杜秀氏のプログラムノートにも、その旨の記載はないが、わたしにはブルックナーの交響曲第9番の楽章構成が参照されているように思える。もっとも第3楽章の末尾は、ブルックナーのような浄化された響きではなく、人生肯定的な響きが鳴る。
(2022.3.8.サントリーホール)