Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

津村記久子「サキの忘れ物」

2023年07月05日 | 読書
 津村記久子の短編小説集「サキの忘れ物」には9編の作品が収められている。初出の時期も媒体もばらばらだ。テーマと方法も異なる。それでいて全体は確固たる津村記久子ワールドになっている。平明で、目線が低く、小さいもの・弱いものに温かい視線を注ぐ文学世界だ。

 表題作の「サキの忘れ物」は高校を中退した千春が主人公だ。病院に併設された喫茶店でアルバイトをしている。アルバイトの先輩の女性や男性の店長が点描される。ほとんど毎日来店する年配の女性客が、ある日、忘れ物をする。それが題名の「サキの忘れ物」だ。サキとは何だろう。読んでからのお楽しみだ。

 千春は長編小説「水車小屋のネネ」の第1話の主人公・理佐の前身のように見える。18歳の理佐は高校を卒業した後、8歳の妹を連れて、山間のそば屋で働き始める。理佐も千春も人生に問題がある。でも、自分の居場所を見つけて生きる。第2話では理佐の10年後の姿が描かれる。千春も「サキの忘れ物」の末尾で10年後の姿が描かれる。

 「河川敷のガゼル」には不登校と思われる少年が登場する。河川敷に現れたガゼル(ガゼルとは何だろう。知っている人もいるかもしれないが、わたしは知らなかった。スマホで検索した)を一心不乱に見ている。少年は「水車小屋のネネ」の第3話に登場する中学3年生の研司の前身のように見える。研司は第4話では10年後の姿が、そしてエピローグでは20年後の姿が描かれる。「河川敷のガゼル」の少年は中学3年生で終わる。「水車小屋のネネ」の研司に引き継がれるのだろう。

 「サキの忘れ物」に戻ると、登場人物のひとりに千春の高校時代の友人の美結(みゆ)がいる。ちょっと困った人物だ。千春は美結との付き合いに疲れて高校を中退した。その美結が千春のバイト先の喫茶店に現れる。また千春を困らせる。その描写が、あるある感でいっぱいだ。津村記久子はそんな困った人物の描き方がうまい。うまさが全開の作品が「行列」と「喫茶店の周波数」だ。一方、「水車小屋のネネ」には困った人物が出てこない。「水車小屋のネネ」の読後感が児童文学に似ているのはそれも一因だろう。なお、付言すると、「行列」はシュールな作品でもある。「Sさんの再訪」もある意味でシュールだ。

 「ペチュニアフォールを知る二十の名所」と「真夜中をさまようゲームブック」は方法論的なおもしろさがある。「ペチュニアフォール‥」は、どうやったらこういう方法を思いつくのかと驚く(それがどんな方法か、説明するのは野暮だろう)。「真夜中をさまよう‥」はゲームブックという方法で書かれている。第二次世界大戦後のクラシック音楽で、複数の音楽の断片を作曲して、演奏順は演奏者にゆだねる「管理された偶然性」の音楽が現れた。その発想と似ている。
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