パーヴォ・ヤルヴィが来日中止になり、下野竜也が引き継いだプログラム。シューマンの序曲「メッシーナの花嫁」、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」そしてシューマンの交響曲第3番「ライン」。若い頃にウィーンでシューマンをみっちり仕込まれた(と、どこかで読んだ記憶がある)下野竜也のために用意されたプログラムのようにも思える。
「メッシーナの花嫁」は珍しい曲だ。3曲目の「ライン」と同時期の作品で、シューマンがデュッセルドルフに移ったその時期には、作曲が集中している。「メッシーナの花嫁」を聴くのは初めてだが、シューマンらしい悲劇性が感じられる曲だ。演奏はがっしりした骨格をもつ演奏だった。
ベートーヴェンの「皇帝」は、来日中止になった外国人ピアニストの代演に清水和音が立った。いつもながらの美音で流麗な演奏だ。それが一層磨き上げられ、ひとつの完成されたスタイルを感じさせる。見事というしかないが、その一方で光り輝くネオンサインを見るような感覚を(わたしは)覚えたことも事実だ。それは好き嫌いの問題だが。
オーケストラはこの曲でも、がっしりした、骨太の演奏をした。拍節がはっきりして、前へ前へと進む演奏が、清水和音の流麗な演奏とはスタイルが異なり、そのコントラストがおもしろかったともいえる。
「ライン」は驚くほど高解像度の演奏だった。すべてが明晰で、透けて見えるような演奏だった。淀みがなく、かつ力みのない演奏。N響の力量はいうまでもないが、それを最大限発揮させた下野竜也も瞠目に値する。コロナ禍に入って以来、多くの日本人指揮者を聴いたが、下野竜也は一頭地を抜く実力派だ。
「ライン」に限らず、シューマンのオーケストラ曲では、当夜のように抜けるような青空を思わせる演奏がある一方で、(よくいわれるように)モヤモヤした灰色の空を思わせる演奏があるのは、どうしたわけだろう。音程の正確さ・不正確さでは説明のつかない事情があるような気がするが。そこにはなにかの企業秘密があるのか。それとも、まさかわたしの耳の悪さのせいでもあるまいと思いたいが。
ついでにいうと、当夜の演奏では、この曲特有の妙なアクセントが、強調されもせず、無視されもせず、適度な強さで添えられていた。結果、ギクシャクしたところがなく、全体のバランスがとれた、すっきりした造形になっていた。そこからシューマンの晴れ晴れとした幸福感が立ち上がった。その幸福感はシューマンの生涯でも、また同時期の作品と比べても、ほんとうに例外的なものだと思った。
(2021.2.18.サントリーホール)
「メッシーナの花嫁」は珍しい曲だ。3曲目の「ライン」と同時期の作品で、シューマンがデュッセルドルフに移ったその時期には、作曲が集中している。「メッシーナの花嫁」を聴くのは初めてだが、シューマンらしい悲劇性が感じられる曲だ。演奏はがっしりした骨格をもつ演奏だった。
ベートーヴェンの「皇帝」は、来日中止になった外国人ピアニストの代演に清水和音が立った。いつもながらの美音で流麗な演奏だ。それが一層磨き上げられ、ひとつの完成されたスタイルを感じさせる。見事というしかないが、その一方で光り輝くネオンサインを見るような感覚を(わたしは)覚えたことも事実だ。それは好き嫌いの問題だが。
オーケストラはこの曲でも、がっしりした、骨太の演奏をした。拍節がはっきりして、前へ前へと進む演奏が、清水和音の流麗な演奏とはスタイルが異なり、そのコントラストがおもしろかったともいえる。
「ライン」は驚くほど高解像度の演奏だった。すべてが明晰で、透けて見えるような演奏だった。淀みがなく、かつ力みのない演奏。N響の力量はいうまでもないが、それを最大限発揮させた下野竜也も瞠目に値する。コロナ禍に入って以来、多くの日本人指揮者を聴いたが、下野竜也は一頭地を抜く実力派だ。
「ライン」に限らず、シューマンのオーケストラ曲では、当夜のように抜けるような青空を思わせる演奏がある一方で、(よくいわれるように)モヤモヤした灰色の空を思わせる演奏があるのは、どうしたわけだろう。音程の正確さ・不正確さでは説明のつかない事情があるような気がするが。そこにはなにかの企業秘密があるのか。それとも、まさかわたしの耳の悪さのせいでもあるまいと思いたいが。
ついでにいうと、当夜の演奏では、この曲特有の妙なアクセントが、強調されもせず、無視されもせず、適度な強さで添えられていた。結果、ギクシャクしたところがなく、全体のバランスがとれた、すっきりした造形になっていた。そこからシューマンの晴れ晴れとした幸福感が立ち上がった。その幸福感はシューマンの生涯でも、また同時期の作品と比べても、ほんとうに例外的なものだと思った。
(2021.2.18.サントリーホール)