平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

情熱大陸 農業のススメ

2010年06月18日 | ドキュメンタリー
 「情熱大陸」でフランスで農業を営む山下朝史さんの話をやっていた。
 山下さんの野菜はフランスの三つ星レストランのシェフたちに大好評だと言う。
 シェフ達は山下さんの野菜を通常の五倍の価格で買い、品がないときは「出来た時でいいから持ってきてほしい」と言って待っていると言う。
 山下さんの野菜のクォリティが高く、シェフ達の料理を作るインスピレーションを刺激するからだ。
 僕はここにも日本の将来のあり方があると思う。
 お金を右から左に動かすだけで利益を得る金融資本主義社会は間違っていると思う。

 山下さんの野菜生産量はわずかだ。収入もそれほど多くない。
 だが山下さんは語る。
 「たくさん作ればクォリティを維持できない。それよりもシェフが喜んでくれて、心が通じ合える方がいい」
 これにも共感。
 番組は違うが、先週の「太田総理」では俳優のえなりかずきさんが日本がGDP世界3位になることを憤っていたが、そんなことよりわれわれ個人ひとりひとりが山下さんのような仕事を世界ですることの方が意味があるのではないか。
 フランスのシェフは山下さんの野菜を尊敬し、山下さんは自分の作った野菜の味を活かして作るシェフ達の料理を尊敬する。
 そんな人間関係を世界で結ぶことの方が大事。
 もちろんお金は大事だけれども、いくら稼いだかで一喜一憂することほど愚かなことはない。

 また山下さんは農業についてこうも語る。
 「農業は野菜と向き合う仕事。そして野菜と向き合いながら自分と対話している。だから(他人と関わる時のように)物怖じしたり、自己卑下したり、傲慢になったりすることが自然と避けられているような気がする」
 なかなか含蓄のある言葉だ。
 他人相手の仕事が苦手な人には農業が向いているかもしれない。
 地道に野菜と向き合い、自分と向き合う。
 どうしたら美味しいものが出来るかを野菜と自分と対話して作っていく。
 農業は本当にクリエイティブな仕事だ。
 日本の職人芸、ここにありという感じだ。


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ソナチネ 死が日常の男の悲劇

2010年06月17日 | 邦画
 麻雀屋の主人をクレーンで括りつけて3分だけ海に沈めることにする村川(ビートたけし)。しかし沖縄行きの話をしているうちに3分立っていることを忘れて、クレーンを上げてみると麻雀屋の主人は溺死している。
 対立するやくざを手榴弾で車ごと吹っ飛ばして殺す。
 その時に村川は「バカ野郎、車を吹っ飛ばしてどうやって帰るんだ?」

 村川のまわりは<死>がいっぱいで、<死>に麻痺している。
 村川にとって<死>は日常でしかない。
 普通の人間にとって<死>は怖いもの。
 人の命は地球より重いとして、何よりも尊重されるもの。
 しかし村川にはそんな<死>に対する想いはない。
 麻痺している<死>に対する感性。
 そんな彼は仲間が殺されても悲しんだり、泣きわめいたりしない。
 憤りはあるのかもしれないが、その炎は小さい。
 通常のヤクザ映画だったら、仲間が殺されて主人公が敵地に単身乗り込んでいくのは最大の見せ場。
 マシンガンをぶっ放して観客はスカッとする。見栄を切って啖呵を吐いて。
 しかし北野武監督はそれをやらない。
 マシンガンを持って単身敵地に乗り込むが、機関銃をぶっ放すシーンは建物の外からのロング撮影。窓から機関銃の火花と銃声が聞こえるだけ。
 北野監督の主眼はマシンガンをぶっ放してカタルシスを得ることにはなく、<死>に麻痺してしまった男の空虚を描くことにあるのだ。
 生きることに喜びも悲しみも、怒りも憎しみも抱けなくなってしまった男の悲劇。
 そんな男はもはや死ぬしかない。他人の手で死ねないのなら自分で死を選ぶしかない。

 そして、そんな男が唯一救われた時間が仲間と過ごしたバカな時間だ。
 落とし穴を作って落としてみたり、花火で戦争ごっこ(途中で実弾で打ち合う)をしたり、相撲をしたり。
 この時間だけ村川は<笑う>という感情を少し得ることができた。

 心が枯れ果てて砂漠になってしまった男の空虚。
 そこには大きなドラマはない。
 その心の中のように乾いて、果てしなく静かだ。


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トレーニングデイ 善と悪の危うさ

2010年06月16日 | 洋画
 デンゼル・ワシントンの作品というのはハズレがない。
 また、これだけ様々な役を演じ分けられる役者さんも珍しい。
 「ボーンコレクター」の知性のかたまりのような刑事。
 「マイ・ボディガード」の戦場の虚無を背負いながらも心に温かいものを持っている男。
 そしてこの作品「トレーニングデイ」の悪徳刑事。
 知性と暴力、静と動、陽と陰、様々な役を見事にこなす。
 たとえばエディ・マーフィは陽気な黒人だし、スティーヴ・マックィーンはタフガイですからね、デンゼルの近く公開される作品は「トレーニングデイ」の悪徳キャラに近いそうだけど、楽しみ。

 さて物語の方は塀の上を歩くような緊張感がある。
 悪と闘うために、<狼>となるか<羊>となるか?
 狼とは法律を破り乱暴で汚い手段を使ってでも悪と立ち向かうと仕事の仕方。
 羊とは法律を守り、法にのっとって悪を追いつめていくやり方。
 どちらが現実の悪に有効かと言えば、劇薬である<狼>の方。

 たとえば劇中ではこんなエピソードがある。
 通常の法律では裁けない麻薬の売人の元締め。
 デンゼル演じる狼の刑事・アロンソはその元締めを正当防衛に見せかけて殺す。
 正当防衛に見せかけるために同行した同僚の刑事に重傷を負わせることもいとわない。
 また麻薬の元締めが隠し持っていた資金を警察の上層部に賄賂として渡し、自分の乱暴なやり方が追及されないように手を打つ。
 何ともすごいやり方だが、通常の法律にのっとっていたら、元締めは未だに暗躍し、麻薬を売り続ける。
 見ている方もアロンソの<狼>のやり方の方が正しいのではないかと思えて来る。

 <狼>か<羊>か?
 この二者択一がアロンソに同行する新米刑事ジェイク(イーサン・ホーク)の目を通して描かれる。
 アロンソは善なのか悪なのか? 現実の悪に対抗するには<狼>か<羊>か?
 そんな緊張感が全編に漲っている。

 この作品のラストはなかなか深い。
 ネタバレになるので書かないが、アロンソのやり方は<善>にも<悪>にも転ぶ危うさを持っているとだけ書いておく。

※追記
 シェイクスピアではないが「善は悪であり、悪は善」なのだ。
 たとえば、法律を守る善の捜査をしていたら麻薬は売られ続ける。(善は悪)
 だが、法律を守らない暴力による捜査をしていたら麻薬の売人は一掃される。(悪は善)
 この作品は<善>と<悪>に単純に分けられるこれまでのドラマとひと味違う。


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ビッグ・フィッシュ 人生を空想で味付けする

2010年06月15日 | 洋画
 味気ない人生に空想で味付けすると楽しくなる。
 エドワード・ブルーム(アルバート・フィニー)はそんなふうに生きてきた。
 彼の語った人生はこんな感じ。

 子供の頃、未来を予見する魔女に自分がどんなふうに死ぬかを教えてもらった。
 青年になってからは、家畜を殺す5メートルの巨人と都会を目指す旅に。
 旅の途中でまぎれ込んだ所はスペクターという幻の町。誰もが穏やかに幸せに暮らしている。だが青春の野望に燃えるエドワードはスペクターでの穏やかな生活を捨ててふたたび旅へ。
 旅の途中、彼は<運命の女性>に出会う。
 その女性のことを知っているサーカス団長から女性に関する情報を得るためにサーカスで働き始めるが、何とサーカスの団長は狼男。
 その後、エドワードは<運命の女性>=今の妻に出会い、結婚するが朝鮮戦争へ。
 妻と早く暮らしたい彼は三年の兵役を一年にするために困難な任務を志願。
 その戦場で出会ったのは体が結合した双子の姉妹……。

 そんなエドワードの息子・ウィル(ユアン・マクレガー)は子供の頃は面白がって聞いていたが、成人した今となってはバカらしくて聞いていられない。
 エドワードに死期が迫っていることもあり、父親の本当の姿を知りたいと思い、父の人生をたどる。
 そこで明らかになったのは次のようなもの。

 子供の頃、確かに気味の悪い魔女のようなおばあさんは近くに住んでいた。
 体の大きな男と都会に出て行ったのも事実。だが、5メートルの男ではない。
 その旅の途中でスペクターという町に立ち寄ったが、別に幻の町ではない。
 サーカスで働いていたが、別に団長は狼男ではなかった。
 そして<運命の女性>とは、現在のエドワードの妻のこと。
 朝鮮戦争で出会った女性は体が繋がっていたわけでなく、ただの双子。

 これだけでもエドワードの人生は波瀾万丈だった感じがするが、彼はさらに<空想>で現実を味付けした。
 そして、それを信じた。

 ネタバレになるが、エドワードが最期の時を迎えた時の息子・ウィルの行動は感動的だ。
 エドワードの<空想>で味付けした人生を肯定するのだ。
 それは父親の信じた人生を「ウソだ」否定してしまったら、父親は失意の中で死んで行かなくてはならないから。
 そして、さらに息子は「お父さんは大きな魚になって河に帰っていく」とエドワードの死を<空想>で味付けする。
 「何という素敵な死だ」と言って満足して死んでいくエドワード。

 人生は味付けの仕方によって、大きく変わってくる。
 できればエドワードのように楽しい味付けをしたい。
 あなたはどんな味付けをしますか?


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龍馬伝 第24回「愛の蛍」

2010年06月14日 | 大河ドラマ・時代劇
 龍馬(福山雅治)とお龍(真木よう子)の恋物語が本格的に始まった。
 「家族を放り出して好き勝手をやっている人は嫌い」といきなり<嫌い発言>のお龍。
 でもこの発言の背後には父親への思いがある。
 父親は龍馬同様、志のために家族を放って好き勝手やっていた男。
 お龍は龍馬を父親と重ねていた。
 父親を否定しながらも同時に求めているお龍。
 その父親を求める気持ちが龍馬への関心を嫌がおうにも向けさせる。
 龍馬が病気の母親や兄弟たちといっしょにいるのを見て、お龍は龍馬に父親を見たのではないか。
 そして、それが恋に発展する。 
 なかなか複雑な心情だ。
 加尾や佐那が「好き」と直球で向かっていったのに対し、お龍は変化球。
 なかなか心を開かないお龍に龍馬はやきもきする。
 いきなり「嫌い」で、「お借りしたお金はお返しします」ですからね。
 やはり恋は追いかけた方が負け?
  
 また、お龍が龍馬に的確な言葉を与えたのもヒット。 
 彼女は亀弥太の死についてこう言った。
 「志を貫かれたのでしょう、あの人は。坂本さんはほめてあげなくては。よう頑張った。侍らしく死んだと」
 亀弥太の死についてどう考えたらいいか迷っていた龍馬。
 <無駄な死?><虫けらの死?>
 それをお龍は<志を貫いたほめるべき死>と意味づけた。
 龍馬にとっては救われたことだろう。
 龍馬の心に響いたお龍の言葉。
 龍馬の心の中にお龍はしっかりと刻まれたことだろう。

 そして今回はもうひとつの愛。
 半平太(大森南朋)とお冨(奥貫薫)。
 「つらい牢生活に美しいものを」「あなたと同じものを見ていたい」
 そんな思いを込めて送ったホタル。
 なかなか上手い小道具だ。
 そんな冨と比べて、武市の「おまんに辛い思いをさせてすまん。まっこと、すまん」は芸がないが、これは武市の性格で仕方がないか?
 弥太郎(香川照之)夫婦との比較も面白い。
 比較の中で子供がいないことをお冨さんは悔いているのかと視聴者に思わせておいて、実は乙女の話で、子供がいないことが逆にふたりの強い絆になっていることが告げられる。
 上手い。
 これが弥太郎夫婦のことをうらやましく思うお冨の描写だったら、何と趣のない薄いシーンになっていただろう。

 お龍もお冨の心情描写もこれだけ複雑にすると、ドラマは深くなる。


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ゲゲゲの女房 C調に生きる

2010年06月12日 | ホームドラマ
 「悪魔くん」誕生秘話。
 不公平な世の中を糺すために悪魔の力を借りる。これが「悪魔くん」のモチーフ。

 そうですね、物語というのはこういうものなんですね。
 正義。努力すれば報われる。永遠の愛、固い友情。ドラマチックな人生。
 現実ではなかなか実現できないこれらのことを描くために物語はある。
 物語によって、われわれはこれらのものをもう一度信じてみようと思う。
 非日常の体験、スカッとするためのうっぷん晴らしでもある。
 物語は生きていくためのビタミン剤。

 また物語は現実を理解・把握するための手段でもある。
 茂(向井理)たちの<貧乏>という現実。働いても働いても楽にならない暮らし。
 経済学的には、貸本漫画はもう時代遅れ、映画がテレビに食われていったようにひとつの産業は衰退するものという説明がなされ、茂は新しいニーズ=漫画雑誌に転身すべきと結論づけられるだろうが、物語の説明は違う。
 <貧乏>なのは<貧乏神>のせい、貧乏を抜け出すために<貧乏神>に勝たねばならないと説明される。
 物語は現実を通常とは違った論理で説明してくれるものなんですね。

 というわけで今回は理屈っぽくなりましたが、物語論。
 ドラマとしては、布美枝(松下奈緒)は内職とかすればいいのにとかツッコミたくなるが、ツッコムと物語が崩壊してしまうので敢えてツッコまない。
 それよりも「何とかなる」
 この言葉をどんな時でも忘れずに生きていきたいですね。

 あと印象に残ったせりふは、はるこ(南明奈)の「浦木さんってC調なんですね」というせりふ。
 <C調>。
 サザンの歌にあったと思うが、時代を感じさせる味のある言葉。
 なかなか出来るものではないが、<C調>に生きられれば世の中、結構楽しく生きられるだろうな。


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アリ 人間として闘ったモハメッド・アリ

2010年06月11日 | 洋画
 <キンシャサの奇跡>までのモハメッド・アリ(ウィル・スミス)の戦いを描いたこの作品。

 アリはボクシング以外にも様々なものと闘ってきた。
・黒人であること、差別。
・モスリム(イスラム教徒)であること。
・自分を利用して金を稼ぐことしかしないプロモーター、宗教家。
・そしてアメリカという国。

 ベトナム戦争の最中、アリは徴兵を拒否する。
 それは単なる平和主義からだけではない。
 アリの論理はこうだ。
 「自分は黒人であることから不当に差別されてきた。国からも本来受けるべき権利を与えられていない。何も与えていないくせに国は俺に戦争に行って国に奉仕しろと言う。自分には関係ないアジアの民を殺せと言う」
 「自分は奴隷の出身で、カシアス・クレイという名は白人が奴隷として自分の祖先につけた名前だが、自分は奴隷ではない。何者にも屈服しない。国にも服従しない」
 アリの徴兵拒否は、黒人であること、奴隷の出身であることから発せられた血も肉もある行動だったのだ。単なる上っ面の偽善的な平和主義から出たものではない。

 だがこの徴兵拒否の結果、アリはチャンピオンを剥奪され、ボクシングも出来なくなる。
 ボクサーとして一番油の乗っている時期に試合が出来ないのだ。
 貯金も底を尽きる。信じていたイスラム教会も彼に信仰の禁止を宣言し、裏切る。
 しかし、それでもアリは信念を曲げない。
 そして、そのブランクのせいからか、戦争が終わって再びリングに復帰したアリはジョー・フレイジャーに敗北する。
 アリの復活劇はこの敗北から始まり、ジョージ・フォアマン(フレイジャーを倒した新チャンピオン)と闘う<キンシャサの奇跡>に繋がるわけだが、僕はこのフォアマンとの闘いは以前のものとは大きく違っているような感じがした。
 闘うアリの精神が大きく変わったような気がしたのだ。
 それまでのアリはまさに<モハメッド・アリ>、神の戦い方だった。
 だが、このフォマン戦は実に人間くさい。
 闘いの前には浮気をするし、悪徳プロモーター・ドン・キングとも手を結ぶ。
 以前のような華麗なボクシングではなくサンドバッグのように打たれて打たれて打たれまくる。
 アリは徴兵拒否、復帰戦での敗北を経て、神から人間になったのだ。
 挫折・困難がアリを人間にした。
 そんな感じがする。
 そして打たれて打たれて、なおも自分を鼓舞して懸命に闘う姿はまさに人間。

 <キンシャサの奇跡>が名勝負と言われるのは、こんな所にあるのではないか。


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臨場 第9話 人と繋がる

2010年06月10日 | 推理・サスペンスドラマ
 ホームレスのシオさん(斎藤洋介)が容疑者から外れた理由は次のふたつの点。
・上向きに引きちぎられていたボタン。
・被害者のツメに糸くずなど衣類の残留物がなかったこと。ボタンを引きちぎったのなら残っているはず。
 シオさんは「自分が殺った」と自供したが、実は誰かをかばってそう言ったのだ。
 では誰をかばったのか?
 シオさんは女性用の赤い水玉の傘を持っていた……という物語。

 推理物としては物足りない。
 容疑者が少ないし、赤い傘でシオさんがかばった犯人はすぐにわかってしまう。
 それよりもこの作品が今回描きたかったのは、人と人のふれあいなのだろう。

 シオさんと赤い傘の女性。
 女性はホームレスのシオさんに毎日「おはよう」と声をかけてくれた。
 嬉しいシオさん。彼女のあいさつが彼の生きている希望だった。
 彼女から雨の日に自分の赤い傘をもらったことも理由のひとつだが、シオさんが彼女の罪を被ったのは、彼女が自分に「おはよう」と挨拶してくれたから。

 人は誰かと繋がっていたいと思うもの。
 それは密接なものでなくていい。
 毎朝、挨拶を交わすとか、つらい時、黙ってそばにいてくれるとか。
 人と人が繋がるのに過剰な言葉はいらない。サプライズも豪華なプレゼントもいらない。
 そんなことを教えてくれた今回の話。

 シオさんのキャラクターはもう少し掘り下げてほしかった。。
 被害者に自分のボタンを握らせて偽装したり、被害者の財布の金で飲み食いして自分の犯行であることを裏づけたり、取り調べでわざと否認してみたり。
 なかなかの頭脳派。
 五代部長(益岡徹)の大学の同期だったらしいからかなりのインテリだったのだろう。
 そんな彼がどこで一般社会から外れてしまったのか?
 徒然草の意味は?
 掘り下げれば、もっと現代が見えてきたはず。

 最後に倉石(内野聖陽)。
 ホームレス姿がよく似合う。もともと汚い親父だしね。
 自家製のきゅうりやトマトをあげてすぐに友達になれる所も微笑ましい。
 倉石は好きなのだ。
 一本のきゅうりに喜べる人間や、地べたを這いつくばる生活をしていながら明るくしぶとく生きている人間が。

※追記
 そう言えば、五代の同窓会の出席ハガキは<欠席>でしたよね。<またの機会に必ず>というただし書き付きで。
 友達の大切さがわかっても素直に<出席>と書けない五代。
 こういう屈折した心、よくわかります。
 
 



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ジョゼと虎と魚たち 人は誰かを愛さない方がいい

2010年06月09日 | 邦画
 久美子(池脇千鶴)は下半身不随の女の子。
 外出は祖母の押す乳母車に乗って。あとはほとんど家の中で過ごす。
 乳母車の外出以外に久美子が外界に触れるのは、祖母が近所のゴミ置き場から拾ってくる本や雑誌。
 久美子は自分の名を”ジョゼ”だと言うが、その名前の由来は拾ってきた本の中にあったサガンの小説の主人公から。
 そんなジョゼの日常の中にひとりの青年が入ってきた。
 大学生の恒夫(妻夫木聡)だ。
 やがてふたりは恋するようになるが……。

 昨日の「陰日向に咲く」では<人は誰かを愛さずにはいられない>と書いたが、この作品を見るとこんなことを考えてしまう。
 <愛は苦しみ。人は愛さない方がいい>
 以下、ネタバレ。


 結末を言うとジョゼと恒夫は最後に別れる。
 ジョゼの下半身不随が恒夫の負担になるのだ。
 その負担は体の自由が利かないことだけではない。体の自由が利かないもどかしさからジョゼはわがままを言う。怒り出す。
 そんな精神的なこともあって恒夫はジョゼを重荷に思う。
 自動車に乗って行く初めてのふたりだけの旅。
 ジョゼは大いにはしゃぐが、恒夫の態度から別れの予感を感じている。
 ラブホテルに入って、自分を人魚に見立てたジョゼは恒夫にこんなことを言う。
 「わたしは海の底から恒夫と最高のエッチをするためにやって来た。恒夫が現れる前は、何もなくてただ時間が過ぎていく生活を送ってた。あなたがいなくなったら再びその生活に戻ってしまう。それでもまあ、良しとしよう」
 <まあ、良しとしよう> せつない諦念だ。
 もし恒夫と出会わなければ、恋に落ちなければ、ジョゼはこんな哀しみ、苦しみを味合わずに済んだ。
 <何もなくてただ時間が過ぎていく生活>は退屈かもしれないが、心に波風や嵐が吹かなくていい生活を送ることが出来た。
 ジョゼは恒夫を好きになったことは正解なのか、そうでないのか?
 答えは見る者に委ねられている。
 確かにジョゼは恒夫を愛したことで、動物園で虎を見たり、ラブホテルで魚に囲まれて最高のエッチをすることが出来たのだが、その輝いた時間が失われてジョゼは以前の<ただ時間が過ぎていくだけの生活>に耐えられるのだろうか?
 ラストのジョゼの姿は、何も起こらない日常を受け入れる強さを感じるが、その心の内はわからない。
 また恒夫。彼はジョゼを捨てた罪で、ラスト崩れ落ちるように号泣する。
 彼は一生癒えることのない心の傷を負ったのだ。

 人は誰かを愛さない方がいい?


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陰日向に咲く ぽっかり空いた心の穴を埋める

2010年06月08日 | 邦画
 人は何か欠けた感じを持って生きている。
 心にぽっかりと空いた穴のようなもの。

 主人公(岡田准一)の場合は母親。
 彼は母親を求めている。
 また愛情の裏返しで憎むことで父親も求めている。

 オタク青年(塚本高史)は小学校時代、告白できなかった初恋の女の子を求めている。
 ホームレスの親父(西田敏行)も同じく叶えられなかった恋を追っている。
 何かを求めて満たされない彼ら。

 そして彼らはぽっかり空いた穴を代わりのもので埋めようとしている。
 主人公の場合は代わりの母親。
 オタク青年の場合はアイドル。
 そしてホームレス親父は埋めることを諦めて、ホームレス生活を続けている。(ホームレス親父は主人公やオタク青年の将来の姿か?)

 人は心の穴を埋めるために生きている。
 代用品でも何でもいいから埋めようとしている。

 それは主人公の代わりの母親になった老女もそう。
 老女は自分の子供を亡くしていた。亡くなったのは二歳。
 そのまま大きくなっていれば、主人公と同じ年頃。
 だから主人公を代わりの息子にして、疑似親子関係を結んだ。
 そして彼女は亡くなり、主人公に手紙を残す。
 「私はあなたの良い母親でしたか? あなたを幸せに出来ましたか? 聞かせて下さい、あなたと私が共に過ごした人生を」
 老女は疑似親子関係を結ぶことで、ほんのわずかでも母親となることが出来た。
 主人公の人生の歩みを聞くことで、いっしょに人生を歩んできたような気持ちになれた。悩みを聞くことで、息子の話を親身になって聞く母親になれた。
 彼女はそれで救われたのだ。

 人は心の穴を埋めるために生きている。
 たとえ代用品でも誰かを愛さずにはいられないのだ。


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