フォンテーヌの家  わたしのつぶやき

横浜市南区で趣味の会[フォンテーヌの家」 

パソコンが動かなくなり、電話で教えて頂きました。何もしないのに、電話だけで疲れてしまいました。歳を感じました・・・。

2020-03-11 21:37:56 | 日記

暖かい一日でした。桜の開花が早くなるのでは?と報道されていました。我が家の茗荷やシランなどは、まだ眠っているのでしょうか変化なしです。昨年、茗荷の葉は立派に茂りましたが、収穫したい”茗荷”は、2,3個だけでした。

午前中、何故かパソコンが全く動かなってしまいたので、メーカーに電話をしました。いつものことですが、なかなか電話が通じませんし、通じてからも待ち時間が長いのです。

色々、支持を受け何とかパソコンが使える様になった頃には、わたしが疲れてしまいました。

針仕事をする気力も無くなり、台所を片づけたり洗濯物を仕舞いそれぞれを所定の場所に戻しました。アイロンがけも済ませました。

 

のんびりしていたのですが、少しすると手持ち無沙汰になり友人から送られてきたネクタイの再生の袋を弄っていました。以外と手が掛かりそうな気がしてきましたが、まずは試作してみようと思い、型紙づくりを始めました。

ネクタイの巾にかなり違いが有ることをしりました。型紙も大・中・小の三種類ほど用意した方が良いのかも・・・。

急ぐことも無いので、のんびり楽しみながらチャレンジしようと思っています。明日は、ほのぼの の編集員が我が家に集まり、店屋物でランチをすることになっています。何人来られるか分かりませんが、久しぶりなので楽しみです。

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3月11日、絶対忘れない日です。

2020-03-11 08:42:04 | 日記

2011年3月11日。日本中の人が決して忘れない日です。わたし個人としても忘れられない日です。その日は、母の通夜の日でした。

母は3月6日、日曜日に急逝。母の願い通り苦しまず即死状態でした。大森の自宅を空けたまま、独りで別荘に建てた富士宮の家に一人で住んで居ました。

大きな富士山の裾野まで見えるところに家を建て、両親で楽しんでいましたが、父が亡くなったとき、大森の自宅に戻ると思ったのですが、独りで富士宮に住み続けたのです。

家を建てる時、月に1週間くらいは富士宮で過ごす、と父は言っていましたが大森の自宅をビルにしてからは、殆ど富士宮に住み着いてしまったのです。コンクリートの家は、息が苦しくなると言っていました。

 

通夜の日、富士宮のご近所さんたちが新横浜までは来られたのですが、大森までの足が全く無かったようで、その日は戻られ翌日の告別式に再度出てきてくださったのです。

わたしたちも、家に戻る術が無く、葬祭場に全員泊まりました。決して忘れることは出来ないです。

もう一つ忘れられない事があります。3月11日は初孫ちゃんのお誕生日で、今日で彼女は25歳になりでます。目下看護師として頑張っています。

9年前、彼女のお誕生日を祝うどころではありませんでした。先ほど。彼女の携帯に「おめでとう」メールを送りました。

 

母の祥月命日は、3月6日ですが11日と勘違いすることが多いです。

母はマイペースでかなり我儘な人でしたので、葬儀の後兄が「ひと騒がせな母でしたが、葬儀までも人騒がせでした」と、精進落としの後に挨拶をしました。皆さんが何となく納得しておられたのが、印象的でした。

6日の命日の日から、食堂のテーブルの上に母の写真を置いています。94歳のお誕生日に写して頂いた写真です。

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