フォンテーヌの家  わたしのつぶやき

横浜市南区で趣味の会[フォンテーヌの家」 

今日も予定の無い一日でしたので、傘の再生仕事を楽しんでおりました。

2020-03-08 22:56:44 | 日記

一日中、シトシト雨が降る寒い日曜日でした。午前中は台所仕事をしたり片付け仕事をしたり、所在ない時間を過ごしていました。

お昼近くなって傘の再生作業を開始。恥ずかしいほど小さな端切れもつなぎ合わせて紐と内ポケットを何とか作りました。ずいぶん時間をかけてしまいましたが、ジグソウパズルをしているような気持ちで、一寸楽しみました。

 

何とか完成出来そう、と思えるようになり嬉しかったです。遅めのお昼ご飯は、昨夜の残りの セリソバ と かき揚げで、両方とも完食しました。やっぱりセリソバは最高です。

 

わたしがセリそばを始めて食べたのは、まだ小学校に入る前でしたし、八百屋さんで売っているものでは無く、田んぼの周りに生えていた田ぜりでしたから、苦みが強いセリでした。子供の口には合わなかったのです。

食糧の無い時代でしたから、それを食べなければ他に食べるものは無いので、一生懸命苦いセリを我慢して食べたことを覚えています。その代わり、お蕎麦は畑で採れたソバの実をそば粉にして、そのそば粉でお蕎麦を作っていたのです。

繋ぎに小麦粉を使っていなかったのかもしれません。スルスルっと啜れなかったです。啜るほどお蕎麦は長く無かったです。お箸で口に運んだ覚えがあります。今思えば贅沢品でした。

お蕎麦を食べながら、その当時お蕎麦は丼では無く深皿でした。それも洋皿では無く、丼を浅くしたような感じのお皿でしたね。この頃見たことが無いです。

 

そば粉や小麦粉は、畑で収穫したものがありましたから、うどんも自家製でしたね。大分後になって、ソバやうどんを切る機械を使うようになりました。捏ねた生地を入れて、ハンドルを回すと細いそばがぶらぶらぶら下がる様な格好で、出てきていました。

そば粉では、蕎麦掻にしても食べました。わたしの父は蕎麦掻が大好きだったようですが、当時のわたしはお蕎麦の方が好きもでした。

 

壊れた傘を再生しながら、忘れていた古いことを想い出しては懐かしんでいます。わたしが子供の頃は祖母が穴が開いたセーターを解き、洗濯をしてからその糸でセーターを編んでいました。物が豊富な現在では考えられない景色です。

今日も再生仕事をしながら、いつも手仕事をしていた祖母を想い出しています。誰とも会話をしなくても、気持ではいつも祖母や昔住んで居た時のご近所の人たちを想い出したりします。

良い時間になっています。充実しています。

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