新藤氏『司法官僚』が示す司法制度改革の原点
官僚制批判、地方分権推進について説得力のある主張を展開されてきている政治学者の新藤宗幸氏が
『司法官僚』
司法官僚―裁判所の権力者たち (岩波新書)
著者:新藤 宗幸
販売元:岩波書店
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と題する著書を出版された。
私は同書を身柄拘束中に読んだ。私の民事弁護人を担当下さっている梓澤和幸先生がご恵送下さった。梓澤弁護士は東京新聞読書欄に同書の書評も掲載されている。
私は日本の権力構造が三権分立ではないことを、拙著
『知られざる真実-勾留地にて-』
知られざる真実―勾留地にて―
著者:植草 一秀
販売元:イプシロン出版企画
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にも記述した。
議院内閣制は大統領制と比較して、「権力の抑制=チェックアンドバランス」よりも「権力の創出」の特性を持つ制度である。
議院内閣制の下での内閣総理大臣は議会多数派勢力から選出される。内閣総理大臣は内閣を編成し、内閣が行政権を担う。他方、議会における決定権は議会多数派が確保する。議会多数派=与党は議会を支配すると同時に、内閣を構成する母体となり、政治的意思決定およびその実行が円滑に促進される。
これに対して米国の大統領制の下では、大統領が所属する政党が議会で多数派である保証はない。大統領所属政党と議会多数派が異なることも多い。
米国の大統領制は大統領に強い権限を付与しているが、大統領選と独立に実施される議会選挙によって大統領が所属する政党とは異なる政党が議会多数派を形成する機会を創出することにより、大統領の行政権限を議会がチェックし、けん制する機能が期待されている。
この意味で日本の議院内閣制には、もとより権力が集中しやすい特性が内包されていると言える。
このなかで、問題は司法制度である。
日本国憲法は、裁判官について、
①最高裁長官は内閣が指名し、天皇が任命する(第6条)
②最高裁長官以外の最高裁裁判官は内閣が任命する(第79条)
③下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によつて、内閣でこれを任命する
ことを定めている。
つまり、内閣が裁判所裁判官の人事について、強い権限を有しているのである。
私は「小泉政権の五つの大罪」について、上記拙著『知られざる真実-勾留地にて-』にも記述したが、そのひとつに
「権力の濫用」
を掲げた。過去の総理大臣の多くは、三権分立の大原則を踏まえ、憲法に規定された内閣および内閣総理大臣の権限行使に対して、一定の自己抑制を働かせてきた。しかし、この自己抑制を完全に排除した初めての総理大臣が小泉純一郎氏であったと考える。
政府は政府の保持する強大な許認可権を行使することによって、「第四の権力」と呼ばれるマスメディアを支配してしまうことも不可能ではない。現実に、総務省からの圧力により、NHKを政治的な支配下に置く行動も取られたと考えられる。
内閣総理大臣はその意思さえ持てば、司法を支配することも不可能ではないのである。日本国憲法が定めた制度設計に「権力の分立」ではなく、「権力の集中」、「独裁」を生み出す要因が内包されている点について、十分な再検討が求められていると考える。
さて、問題は現在の司法制度である。警察・検察の「裁量行政」の問題も重大である。刑事取調べの適正化、取調べの可視化など検討が求められる課題は枚挙に暇がない。
同時に、起訴された刑事事件の99%が有罪とされる日本の裁判制度には根本的な問題が存在するとの指摘が強い。被告人が否認しているケースでの有罪率はイギリスなどの場合、50%程度であるとも指摘されているが、日本では99%が有罪の判決を受ける。裁判制度が機能していないと言わざるを得ない。
問題の本質は日本国憲法第76条第3項に規定された事項がまったく無視されているという現実にある。
日本国憲法第76条第3項は以下の規定を定める。
「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」
裁判官は本来、「その良心に従ひ独立してその職権を行ふ」ことを要請される存在である。裁判官は法の番人であって、「憲法及び法律にのみ拘束される」べき存在である。
裁判官が独立に、その良心に従って憲法や法律を適正に適用して裁判を行えば、多数の悲惨な冤罪判決を生み出すことはないはずである。
新藤氏は上記著書によって、日本の裁判制度を歪めている元凶を見事に抉(えぐ)り出している。その元凶とは「最高裁判所事務総局」である。
最高裁は司法修習生時代に裁判所トップエリートを選出し、この一握りのトップエリートに最高裁事務総局の権限を担わせてきているのである。トップエリートは最高裁事務総局と主要各地裁判所判事、法務省官僚を歴任し、日本の裁判所裁判を実質的に支配している。
裁判員制度が導入され、司法制度改革が進められているとの説明がなされているが、本質的な司法制度改革にはまったく着手すらされていないのが現状である。
新藤氏の著書は、司法制度改革の本丸がどこに存在するのかを鮮やかに浮かび上がらせている。司法制度改革について、一般国民は本質的に重要な事項を何一つ知らされていない。職業裁判官と検察官がすでにお膳立てを終えた事案について、最終的に量刑を決定する際に一般国民が申し訳程度に関与する制度=裁判員制度は司法制度改革の名称を用いることのできる代物ではない。
すべての国民が『司法官僚』を読んで、問題の本質のありかを知ることが司法制度改革の第一歩であると考える。