格差階級社会をなくそう

平和な人権が尊重される社会を目指し、マスゴミに替わって不正、腐敗した社会を追求したい。

「赤字横ばい」と「大不況」の間での二者択一

2009-11-23 19:05:29 | 植草一秀氏の『知られざる真実』

「赤字横ばい」と「大不況」の間での二者択一
鳩山政権で国家戦略室担当相と経済財政担当相を兼務する管直人副総理が「デフレ宣言」を発表したことについて、私は昨日、本ブログに、


「亡国経済政策への誘導灯になる「デフレ宣言」」


と題する記事を掲載した。


 そのなかで、拙著『知られざる真実-勾留地にて-』

 



知られざる真実―勾留地にて―
著者:植草 一秀
販売元:イプシロン出版企画
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に、「デフレ」なる言葉が用いられるようになった経緯について記述したことを紹介した。


 以下に、拙著『知られざる真実-勾留地にて-』から、該当部分を引用する。「デフレ」という用語が用いられるようになった経緯を記述した個所は、


第一章「偽装」
第29節「言論封殺のメディア・コントロール」


で、私はメディア・コントロールに関する諸問題のなかから三つの事例を例示した。メディア・コントロール問題に関する詳論は第二章で記述しており、そのなかで「NHK問題」についても詳述した。


「NHK問題」とはNHKが政治権力に支配されてしまってきた現実を指す言葉だが、その背景、経緯、実態について記述した。第一章では、「メディア・コントロール」の問題を紹介する「さわり」として、


①「デフレ」という言葉がなぜ用いられたのか


②「NHK日曜討論」や民放番組制作における放送局と政治権力との癒着


③現職閣僚であった竹中平蔵氏による放送局への圧力


を例示して説明した。


以下は、「デフレ」という用語が用いられたことに関する第一章における記述の引用である。


「「メディアーコントロール」については第二章で詳論する。「NHK問題」も重大なテーマだ。三つの事例を示す。2002年ころから「デフレ」という用語が頻繁に聞かれるようになった。「デフレ」とは、不況、資産価格下落、金融不安を総称する表現だ。一般物価は下落していたが、当時の実情は「大不況」か「金融危機」だった。用語の発信源は政府=財務省だったと思う。


「デフレ」の第一義はデフレーション=物価下落だ。物価に責任を負うのは日銀だ。病名が「デフレ」=物価下落なら担当医は日銀で、発病の責任も治療の責任も日銀が負うべきとなる。大不況発生の真犯人は政府=財務省だ。「デフレ」という用語を流布して日銀に責任を転嫁したのだ。深謀遠慮の下に「デフレ」が流布されたと思う。


「デフレ」の流布に尽力したのはNHKだ。ニュースで「デフレ」を繰り返した。国民は「デフレ」だと思うようになった。二冊の本が発売された。幸田真音著『日本国債』(講談社、2000年)とリチャード・ヴェルナー著『円の支配者』(草思社、2001年)だ。前者は日本財政が危機的状況だと訴える経済小説、後者は経済危機を生み出した主犯が日本銀行だと主張する経済書だ。テレビの報道番組でコメンテーターが宣伝した。メディア・コントロールの一環だ。


 財務省が世論操作にあらゆる方法を用いることを私は熟知している。本の宣伝広告も常套手段だ。リチャード・ヴェルナー氏は短期金融市場の日銀資金(=ベース・マネー)と経済・金融変動との因果関係を重視し、日銀の資金供給収縮がデフレの原因だと主張した。この見解は量的金融緩和解除後の経済安定によって否定された。彼らは量的金融緩和を解除すれば株価が大幅下落すると主張した。事実が主張を否定した。


NHKは「デフレ」をタイトルに冠する特別番組を何度も放送した。サブリミナル効果を狙ったとも言える。」(引用ここまで)






今後、「「デフレは物価下落だから、政策対応は日本銀行が取るべきである」、「日銀は「ゼロ金利政策」を復活させ、さらに「量的金融緩和政策」を行うべきである」との主張が浮上することは明白だ。


しかし、日銀の政策で対応できる余地は小さい。日銀は1999年2月にゼロ金利政策を採用した。その延長上で1999年秋に、自民党から量的金融緩和政策採用の圧力がかかった。


私は日銀の研究会で、


「量的金融緩和政策の政策的有効性は低いとの認識を示しつつ、政治的な圧力が強まるなら、その圧力を封じることを目的とするなら、量的金融緩和措置を採用することを検討しても構わないのではないか」


との考えを述べた。


日銀は1999年9月21日に、


「当面の金融政策運営に関する考え方」


と題する文章を発表して、量的金融緩和政策の政策有効性が低いとの日銀の公式見解を公表した。


 この場で理論的な説明を示すことは避けるが、民間に資金需要が存在しないなかで、日銀が短期金融市場で潤沢に資金を供給しても、民間で活用される資金が増加するわけではない。1日に1リットルしか水を飲まない人の傍(かたわら)に、数百トンのペットボトルの山を築いても意味がないのと同じだ。


 日銀は2000年8月にゼロ金利政策を解除した。私は日銀による金利引き上げ政策が時期尚早であると強く反対意見を述べた。当時の圧倒的少数派であった。利上げを最も強く主張したのは竹中平蔵氏などであった。


 日銀のゼロ金利政策解除を契機に、日本経済は急激に悪化した。結局、日銀は2001年3月にゼロ金利政策に復帰した。速水総裁が政策運営を誤ったために、日銀は2001年3月にセロ金利政策復帰と同時に量的金融緩和政策実施に追い込まれた。


 2000年に金利引き上げを主張した竹中平蔵氏は、2001年4月に小泉政権で経済財政政策担当相に起用されると、手のひらを返して量的金融緩和政策推進者に変身した。以後、長く日銀のゼロ金利政策、量的金融緩和政策が維持された。


 福井俊彦前日本銀行総裁をはじめ、金融理論を熟知する専門家のほとんどは、量的金融政策が有効でないことを知っている。不況で超低金利の状況下では、金融政策は効果を発揮しえないのである。


 だが、量的金融緩和政策は、実行してもしなくても、大きな変化を生まない政策であるから、逆に言えば、実行することも可能な政策なのである。風邪をひいたときのおまじない程度の気休め効果はあるかも知れない。福井前総裁は、この認識の下で、政治的判断から量的金融緩和政策に付き合ったと言える。


 今回も、日銀が量的金融緩和政策に動くことになる可能性が高い。しかし、量的金融緩和政策で事態は変わらないことを十分に認識しておく必要がある。


 テレビの政治討論を聞くと、田原総一朗氏のように経済学の素養がまったくない人物が経済政策を論じるために、論議が空虚に空回りする。また、野党である自民党議員などは、「デフレ」に対応することが重要だと言いながら、財政赤字が拡大することは問題だといった主張を展開する。


 財政赤字が激増している現実を重く受け止めねばならないが、短期の経済政策においては、景気支援政策を発動することと、財政赤字拡大を阻止することとは、正反対を向く政策であるとの事実を押さえなければ話にならない。


 選択肢は、


「予算書上での財政収支悪化を回避するために大不況を受け入れる」


か、


「大不況を回避することを優先して、短期的な財政赤字膨張を受け入れる」


かの、いずれかしかないのだ。


 「景気をしっかり支えつつ、しかし、財政規律を失わない」


ことは、言葉の上でだけ成り立つことなのだ。


 「デフレ宣言」を発表して、日銀に政策対応を丸投げして、超緊縮財政政策を押し通そうとしているのが財務省の基本スタンスで、いまのところ、鳩山政権はこの政策路線の上に完全に乗せられている。


 政策の中味を「コンクリートから人」に変え、国民の懐を直接温める政策を重視することは正しい。しかし、全体の計数において超緊縮財政政策を強行すればまず間違いなく禍(わざわい)を招く。鳩山政権は政権公約に掲げた政策を前倒しで実行すればよい。予算規模の92兆円への圧縮、国債発行金額44兆円が超緊縮財政を意味することを認識する、現実に対する謙虚な観察眼を持たない人が経済財政政策運営の司令塔を務めることはあまりにも危険が大きすぎる。


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高齢者の大量殺戮を実行する郵便局

2009-11-23 18:52:33 | オルタナティブ通信

高齢者の大量殺戮を実行する郵便局




 郵政民営化のシンボルであった、郵便局窓口での投資信託販売。地方在住の高齢者達は、退職金等の貯蓄を少しづつ取り崩し、少ない年金の不足分を補い、日々、生活を送っている。「貯蓄が無くなった時、自分の人生は終わる」、そのような思いで、郵便貯金の残高を見つめながら、細々と高齢者達は生活している。貯金に少しでも高い利息が付けば、それだけ高齢者は、「自分が生き延びる事の出来る時間」が延長する。

 利息は高齢者の命の炎であり、炎が小さくなれば死期は近づく。

 出来るだけ長く生きていたい、この高齢者の祈願は、あまりに低い銀行・郵便貯金の金利から、少しでも高い利息の付く郵便局の投資信託へと、資金の移動を引き起こして来た。かつての、日本の高度経済成長を身を持って担い、24時間会社人間になる事によって、現在の日本の豊かさを築き上げて来たサラリーマン達=高齢者達の、「一生懸命働いて来たのだから、人生の終わりには、少しは豊かな生活を送りたい。人生の終わりに、少しはご褒美が無ければ、何のために奴隷のように働いて来たのか分からない」という、祈りそのものが、この資金移動である。

 仮に、Aと、Bという人物・企業の間で株式の先物売買契約を行った、とする。

 Bが、「株式が値下がりする」と予測を立て、株式の先物を1万5000円で「売り」、後に1万円で買い戻したとする。利益は5000円になる。

 Bの契約相手のAは、逆の動きをする。

 Aは「株式が値上がりする」と予測し、株式の先物を、15000円で「買い」、予測が外れ、最終的に1万円で売却する。損失は、5000円になる。

 Aの先物買い=Bの先物売りが、同時契約であり、Aの売却=損失と、Bの買い戻し=利益が、同時に実行される。

 Aの損失と、Bの利益は等しい。こうして、市場全体では、常に、プラスマイナス・ゼロである。誰かの利益は、誰かの損失によって産み出されている。

 郵便局の窓口で、高齢者達が購入した投資信託の運用会社は、日米欧の大手銀行の子会社である。

 親会社Bは、株式が「値下がり」すると予測を立て、株式の先物を1万5000円で「売る」。

 親会社Bの命令で、投資信託の運用会社=子会社Aは、「無理矢理、様々な理由を付け」、逆に「株式が値上がりする」という予測を立て、先物を1万5000円で「買う」。

 親会社Bの予測通り、株式が値下がりすると、親会社は利益を上げ、子会社は損失を出す。

 子会社の投資信託会社の運用担当者は、「合理的、合法的な理由と、法的手続きで」子会社の損失=親会社の利益を出し、その「能力を高く評価され」、親会社に抜擢され、出世する。

 子会社の損失は、親会社の利益と、「等しい」。事実上、親会社による、子会社の資金の「強盗」である。

 この取引は、親会社と子会社の直接取引では、利益相反取引として違法になるため、複数の仲介企業、海外のオフショア銀行を経由して行われる。オフショアでの取引内容は、東京地検、CIAにも、全く把握されていない。

 郵便局の窓口で、投資信託1500万円を買った高齢者達は、500万円を損失し、財産の3分の1を「失う」。失われた500万円は、投資信託会社Aの親会社Bの「利益」となっている。

 高齢者達は「生きる事が出来る人生の3分の1」を失う。高齢者達は、「自分が早く死ななくてはならない事」を「強く」自覚する。高齢者達が失った500万円、高齢者達の生命=人生そのものは、郵便局で売られている、投資信託の運用会社の、親会社に「強盗」されている。高齢者達は、命を奪う「強盗」の被害者である。

 この強盗を誤魔化すために、「投資は自己責任」と、マスコミが大々的に宣伝を行う。

 この郵便局の「資金運用の元締め=親会社B」が、ロックフェラー・ロスチャイルドの銀行ゴールドマンサックスである。ロックフェラー・ロスチャイルドによる、日本の地方の高齢者達の「大量殺戮」である。高齢者達が「命を失う事」が、ロックフェラー・ロスチャイルドの莫大な利益を生み出している。これが、郵政民営化の「本当の狙い」である。

 現在、郵便局の窓口で販売されている投資信託の内、その多くは、元本割れ=損失を出し、地方の高齢者達の「大量殺戮」を実行しつつある。

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