【小沢パッシング考、歴史の醍醐味に生きよ】
鳩山政変により民主党政権誕生以降今日まで3か月を経過したが、この政変の立役者であった小沢幹事長に対する坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとばかりの執拗なパッシングが続いている。この背景に何があるのだろうか、これを解析しておく。
2009.12.16日、小沢幹事長は、小沢パッシング情勢下で、田中角栄元首相の17回忌の法要の為、新潟県柏崎市に出向いた。法要には出席せず、同党の田中直紀参院議員、妻の真紀子・元外相に案内され、元首相の墓に手を合わせた。法要や墓参りには、元首相の後援会の元幹部や、一般の支持者ら数十人も参加した。小沢はその後、記者団に、「政界で活動できるのも、田中角栄先生のご指導のおかげだといつも思っている。先生に負けないような政治家になるように、今後も一生懸命、できる限り頑張りたい」と抱負を語った。
これこそ小沢の真骨頂ではなかろうか。れんだいこは喝采を贈りたい。れんだいこが小沢抱負を解釈すれば、小沢は、戦後政治の対抗軸が角栄的なるものと中曽根的なるものに由来していることを熟知した上で、俺は角栄的なるもの路線に乗るとの決意を公然と宣言したことになる。現在の政治家で、かく座標軸を据え、かく旗幟鮮明にし得る政治家は小沢以外にいないのではなかろうか。身の危険を顧みずの士道精神を感じるのは、れんだいこだけだろうか。
この小沢政治を酷評するのがへなちょこ評論士である。それは、現代の権力機関である政財官学報司の六者機関に巣くうシオニスタンどもの代理人エージェントに過ぎないことを自己暴露している。世が世なれば売国奴として指弾され、決して表舞台には出られない連中である。今は彼らの天下だからして、堂々と好き放題のわが世の春を謳歌し続け、ろくでもない評論を吹聴しまくっている。
残念なことに、この政治抗争軸に対して、日本左派運動が全く無見識の対応を見せていることを指摘しておかねばならない。日本左派運動のかくもみじめな生態は、いわゆるシオニスタン系サヨ運動と呼ばれるのが相応しい。シオニスタン系サヨ運動が久しく左派運動を壟断している。いずれ早急に本来の左派運動に戻さねばならない。彼らは、ロッキード事件以来、角栄的なるものに対する徹底糾弾、その後に立ち現われた中曽根的なるものに対しては是々非々のアリバイ的反対運動でお茶を濁し、間接的に裏から支援するという役割を果たしてきた。日本左派運動の逼塞は、この傾向強化と共に深まり、払拭と共に再生するという加減にある。誰か、この認識を共にせんか。
その小沢が今、「公設第一秘書・大久保隆規被告の公判」で又もイジメられようとしている。容疑は、西松建設のダミーとされる政治団体による献金に伴う政治資金規正法違反なるものであるが、れんだいこは到底納得し難い。その内容を確認するのに、小沢幹事長の資金管理団体収支報告書が「新政治問題研究会」、「未来産業研究会」なる団体からの寄付金合計3500万円を記載していたところ、東京地検がこれを西松建設からの迂回献金であり政治資金規正法違反であるとして政策秘書の大久保氏をいきなり逮捕し、筋書き通りの供述を強制し長期拘留に至るも思う通りの自白が取れず、今日の裁判を迎えているという経緯を見せている。
2009.12.18日、初公判が開かれ、大久保被告は当然ながら起訴内容を否認した。「あくまで政治団体からの献金としか思いませんでした」と述べ、起訴内容を否認、無罪を主張した。次の法廷は1月13日に開かれ、早ければ3月にも判決を迎える見通し、ある。
あきれることに東京地検は、「天の声」なるイカガワシイ法概念まで持ち出している。どうやら本気で「天」を裁くらしい。どうやら、雨が降るも振らぬもお天とう様のせいにして罰したいらしい。しかし、この式の法理論を振り回すのは狂人と云うべきだろう。なりふり構わぬ小沢パッシングの意図だけ見えてくる話である。「疑わしきは罰せず」なる抑制的法理論はとうの昔に捨て去ったらしい。れんだいこが指摘しておく。お前たちが「天の声裁き」に耽ればふけるほど、「シオニスタンの声」が聞こえてくるぞ。「シオニスタンの声」に忠勤することで出世街道切符を手にせんとしている性根の悪そうな生態が見えてきてイヤラシイぞな。
れんだいこ史観によれば、かような東京地検の国策捜査はロッキード事件から始まる。かの時から、東京地検の正義が大きく捩れた。この捩れを捩れと思わぬ程度の頭脳の主が出世し権力を得てから、検察の正義は地に堕ち、数々の「上からの法破り」事件を引き起こしつつ今日まで至っている。この腐敗がいつまで続くか分からないが、破綻するところまで定向進化することは疑いない。それはともかく、この東京地検の国策捜査にエールする形でシオニスタン傭兵たちが口先を尖がらせて小沢パッシングし続けている。
こうなると、れんだいこがしゃしゃり出ねばなるまい。こら!シオニスタンめ、どこの世界に貰った金を届け出たことにより制裁を受けるような理不尽があろうぞ。「貰った先がイカガワシイ、よって罰せられるべし」などとする法理が許されようぞ。そったらことなら、貰った金を届けぬことが良くなるではないか。中曽根みたいに届けぬ者が見逃され、届け出た者が罰せられるのをマジで良しとする連中はよほどオツムが狂っていよう。
罰せられるべきは、「貰っているのに届け出していない罪」であろうに。最近は「貰っていないのに貰っているとして届け出ている」不思議な例もあるが、不届罪が重罪であり、その逆ではない。「貰ったと届け出た方が罰せられる」なんてことが罷り通れば、これを世の末と云う。これを良しとせんとする法曹界は狂っている。その狂人どもが小沢パッシングを続けている。全くもって脳味噌が腐っているしか言いようがなかろう。
この腐れウヨが今、小沢テロを呼号し始めている。当然これを始動せしめているのがシオニスタン奥の院であり、国際金融資本帝国主義ネオシオニストである。最近、中国要人と天皇陛下の会見を廻る騒動が勃発したが、ブッシュの№2・チェイニー副大統領の場合には咎められず、中国の№2・習近平国家副主席の場合には大騒ぎするとはこれ如何に。たまたま右翼の論客と自称する知り合いにかく問うたところ、アメリカは何をしても良いのだ、中国は許されないと堂々と述べ給うた。戦後右派運動がシオニスタン系ウヨ運動に堕していることの生々しい証言であろう。ウヨもサヨも金と地位に弱い。甘言で言論を売る手合いでしかないことが分かろう。それか元々オツムのデキが悪過ぎるのかも知れない。
今、小沢は恐らくヒシヒシと身の危険を感じつつ最後のお国奉公に精出している筈である。日本が国際金融資本帝国主義ネオシオニストに捕捉され解体溶解される動きに座して見やることは堪えられず、原日本の培ってきた悠久の歴史を守るため奮闘努力している筈である。師を角栄に置くという宣言が、これを語っている。これ以外の小沢論を奏でる必要はない。これ以外の小沢論ばかりであるが、れんだいこが許さない。
もとより小沢は角栄ほどには実力者ではない。しかしながら磁石が鉄粉を寄せるように、小沢政治に期待を寄せる向きも強い。世界の動向は次第に小沢の背に角栄を観て、これを支えんとしているようにも見える。なぜなら、この動きをもってせずんば国際金融資本帝国主義ネオシオニストとの対決ができないからである。彼らの悪どい支配を終わらせる為には、闘う主体が確立されねば前に進めないからである。この力関係がどう動くのかは分からない。しかし、歴史に生きる為にはこの程度の不退転の決意が要る。これがそもそもの政治の醍醐味である。我々もまた醍醐味に生きようではないか。以上、一言しておく。
2009.12.19日 れんだいこ拝