福聚講

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大師の時代(榊亮三郎)・・その9

2013-11-16 | 法話

大師の時代(榊亮三郎)その9
宋の高僧傳を見ると、左の如き文がある。

玄宗召術士羅公遠、與空捔法、同在便殿、羅時時反手掻背、羅曰借尊師如意、時殿上有華石、空揮如意、撃碎於其前、羅再三取如意不得、帝欲起取、空曰三郎勿起、此影耳、乃擧手示羅、如意復完然在手とある。

佛祖歴代通載の第十七卷には、天寶年間丙戌の記事として前文と大同小異の文が載せてある。

是歳不空三藏自西域還、詔入内結壇、爲帝灌頂、賜號智藏國師、時方士羅思遠者、以術得幸、有旨令與不空驗優劣、他日會干便殿、思遠持如意、向之言論次、不空取如意投諸地、令思遠擧之、思遠饒力不能擧、帝擬自取、不空笑曰、三郎彼如意影耳、即擧手中如意示之、とある。

如意が手中にあつたか、手中になくて、地上にあつた、又如意が輕かつたか、重かつたか、羅公遠と云ふが正しかつたか、羅思遠と云ふが正しかつたかが、吾輩の問ふ所でない、吾輩が、前文を見て、深く心を動かすものは、不空三藏が、大唐の天子、東方亞細亞の大皇帝に對し、三郎と云つて陛下とは云はなかつた一事である、三郎とは、玄宗皇帝の通名である、即ち睿宗皇帝の第三子であるから、親子兄弟親朋の間には、面とむき合つて、三郎と云ふも、差支はなかつたらう、又、玄宗皇帝は、若き時分から濶達の氣質で居らして、盛に壯士と布衣の交をしたものであつたが、皇帝となられても、隨分浮名を流されたことゝ察せらるゝから、民間でも、所謂蔭口では、三郎と云ふたことは、恰も、今日巴里の市民が、我が同盟國である筈の英國の先帝、「エドワード」第七世陛下の御壯年時代を追想して、快濶な「エツ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ード」などと呼ぶがごときものであるが、面と向き合つて、英國の先帝陛下に「エツワード」と呼びかくることの出來た人々は、世界の中、幾人あつたか、玄宗皇帝のことを、單に三郎と蔭口に、民間で云つたことは、いくらも例がある、俗書ではあるが、鶴林玉露と云ふ書の中に、郎當曲と云ふ題下に、魏鶴山の詩を引用して、紅綿繃盛河北賊、紫金盞酌壽王妃、弄成晩歳郎當曲、正是三郎快活時とある、快活三郎とは、民間が、玄宗皇帝を蔭で呼んだときの名である、河北賊とは安禄山のことで、未だ反せぬとき、楊貴妃が紅綿の繪で、安禄山を包んで、宮中に舁き込ましめたから、かく云ふのである、壽王妃とは、楊貴妃のことで、もと/\、壽王の妃であつたが、早く云へば、玄宗皇帝が、横取して、宮中に納れたから、かく云ふのである、安禄山の變で、蜀に蒙塵せられ、亂平いで、長安に歸らるとき、驛傳の駝馬につけた鈴が、郎當/\と音するから、天子が、妙に感ぜられて侍臣に對し駝馬も人の言語をするやうだと云はれたから、侍臣が、さやうです、三郎郎當/\/\と云ふのでありますと、諧謔したから、天子は、苦笑せられたとあります、しかし、鶴林玉露は俗本であるから、採るに足らぬと云ふなら、さきに引用しました鄭嵎の津陽門の詩中に、三郎紫笛弄煙月、怨如別鶴呼覊雌、玉奴琵琶龍香撥、倚歌促酒聲嬌悲とあるを見ても、明かで、玄宗皇帝は、笛が得意で、いつも、紫玉の笛を吹かれた、玉奴とは、楊貴妃のことで、琵琶が上手、其の構造は、贅澤を極めたもので、琵琶の撥は、龍香柏で作り、其の槽は、邏沙檀とある、邏沙檀とは、恐らく沙邏檀の誤であらうと思ふ、これならば、印度で、非常に珍重する蛇心檀「サルパ、サーラ、チヤンダナ」(Sarpa-s※(マクロン付きA小文字)ra-candana)であつて、沙邏は心サーラの音譯だと、吾輩は信ずる、いづれにしても、其の贅澤の程が推察せらるゝ次第であるが、しかし、大唐天子の贅澤である、かゝる位のことは怪むに足らない、この大唐天子の帝師となり、灌頂國師となり、勅によりて、或は雨を祈り、或は雨を止め、或は西蕃の寇を攘ひ、或は河北の賊の變を豫言し、玄宗皇帝より、代宗に至るまで、三代に歴仕して、禁闥に出入し、位は儀同三司即ち今の大臣待遇に至り天子を呼ぶに、其の名を以てして、天子咎めず、入寂のとき、天子これが爲めに廢朝三日に至つた程まで、朝野に重きをなして居つた高僧は、即ち不空三藏其の人で、大師の師惠果は、即ち其の弟子であつたのである。
惠果も、大唐天子の灌頂の國師であり、三代に歴仕して、徳惟時尊、道則帝師であつたとすると密教は、善無畏三藏や金剛智三藏の來朝以來一行禪師だの、不空三藏だの云ふ樣な連中の努力により、事實上已に、大唐天子の最も心を傾けて歸依せられた宗教となつたのである、密教を組織的に唐に傳へたは、善無畏三藏であるが、かくまで密教の勢力を唐の宮廷に扶植するに至つた始めは、金剛智三藏を推ねばならぬ、玄宗皇帝が、最初の程は道教に歸依して居られたので、三藏の教化が、これを密教に歸依せしめたのである、宋高僧傳の金剛智三藏の傳の下に、干時帝留心玄牝、未重空門とあるを見ても、明白である、玄牝とは、老子の所謂谷神死せず、これを玄牝と云ふに基いたものである、しかし、密教の流行は、當時東方亞細亞一般の氣運であつて、必ずしも支那ばかりでない、印度には、中部の方では那爛陀を中心として、烏荼ウドラ國にも及び、密教が流布して居るし、西部では、羅荼ラータ國が中心であり、西北境では、烏萇ウデイヤーナ國、迦畢試カピシヤ國にも流布して居つた、就中、羅荼ラータ國は今の「ラール」一帶の地方で、昔から、密教の中心であつたことは、大唐西域求法高僧傳の中、玄照の傳や、道琳の傳を見ても判然する、又隋の東都洛濱上林園翻經舘南賢豆沙門達摩ドハルマ笈多グプタも、續高僧傳によると、南賢豆、羅囉國人也とあるが、賢豆は、印度のことで、羅囉とは「ラーラ」と發音するのであるが是れは羅荼ラータと同じことである L※(マクロン付きA小文字)ta[#tは下ドット付き] の Ta[#Tは下ドット付き] は時ありて、印度で、「ラ」と發音することもあり、又支那では、羅又は囉の音で寫すことがある、二者同一で、希臘の地理學者の「トレミー」の書に所謂 Larike であるとは、私の意見である、西部の印度に屬し、稍や南に偏在するから、南賢豆國の中にしたものと見える、今日の地理から云ふと、Tapti(タプテイ)河と Nerbudda(ネルブダ)河との流域の地方である、南方の地並に其の密教的宗教の中心であつたことは、これでも推察せらるゝ、又烏萇國は、大唐西域記第三に所謂烏仗那ウデイーヤナ國で、昔僧徒一萬八千、今漸減少、並學大乘寂定、喜誦其文、未究深義、戒行清潔、特閑禁呪とあり、其の外、南印度では、龍樹菩薩や、龍智阿闍梨の本塲であるから、其の密教の盛大なことは云ふまでもない、弘法大師の付法傳で見ると、龍智阿闍梨耶は、上天入地、無碍自由、或住南天竺、弘法利人、或遊師子國、勸接有縁、とあり、南天竺并に師子嶋即ち今の錫蘭嶋の人々は、當時齊しく、仰で、龍智阿闍梨耶を崇信したことが明白である、かゝる次第であるから、栴檀樹の香が、軟風に薫ずる摩頼耶國に、密教の第五祖、金剛智三藏が生れたのである、貞元釋教録には、金剛智三藏が、入唐以前に南天の國王捺羅僧伽補多靺摩の爲めに、雨を祈つたことが出てあるが、單に南天とばかりでは、漠としてゐるが、なるほど、香至カーンチ國の王に Nara-simha-pota-varman[#simhaのmは上ドット付き] と云ふがある、西暦紀元七百年頃に王位に即て居る、Pallavaパルラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) 種族の王である、又不空三藏が開元二十九年西暦七百四十一年に唐から、印度に赴く途次に、師子嶋即ち、今日の錫蘭嶋に寄泊した時、國王の※(「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31)待を蒙りた事が、宋高僧傳に見えてますが、其の時には、明に錫蘭には密教が流布していたことが、載せてある、又其の時の國王の名前は、見えて居りませぬが、三藏が、五印度の周遊を畢つて、歸途又錫蘭に立ち寄られたとき、國王尸羅迷伽の表を、ことづかつて、天寶五載即ち西暦紀元七百四十六年に長安に歸られて居るが、其の尸羅迷伽と云ふ名は確に ※(セディラ付きC)ilaシーラ-meghaメグハ と云ふ語の音譯で、戒雲と云ふ意味である、さて此の王の名が、錫蘭の歴史の「マハー※(濁音付き片仮名ワ、1-7-82)ンサ」に、出て居らぬかと、檢べて見ますと、恰も、西暦七百四十一年から、七百八十一年に亘り、師子國王の表の、第九十四代に當りて、Agga-bodhi 第六世と云ふがありまして、其の名は梵語ならば、Agra-bodhi(無上智)と申しまするが、名が、已に密教の名らしく思はれる、今一つの名は、即ち尸羅迷伽シーラメグハであります、一人で二つ名があるは、可笑しいが、一は本名即ち諱で、一は字で、印度の國王は、澤山字のある王があります、臣下が王に對しては、諱即ち本名は呼ばぬ、字を呼ぶは、支那と同じことで、不空三藏の時代の王は、「シーラ、メグハ」の字を以て居つたことが、明白である、今日の西洋の佛教學者は、錫蘭嶋に傳へた佛教の經典を以て、最も原始佛教に近い佛教の經典であると信じて居る方々があるが、かゝる學者に、錫蘭島にも曾つて、密教が傳はり流布したことがあると云つたら、驚くだらうが、事實は、如何ともし難い、師子嶋には確に密教が一時流布したのである、觀音勢至が祭つられた時代があつた、獨り錫蘭嶋のみでない、爪哇「スマトラ」、「ボルネオ」等、南洋一帶の地で、印度と支那との通商の航海をなすに當り、其の中間の寄泊地となつた地方には、密教が、流布して居たのである、不空三藏が、金剛智三藏に出合つて、拜して師事したのも闍婆ヂヤバ即ち、今の爪哇である、今日にても、南洋に觀光釆風の客は、爪哇の「ボロ、ブヅール」や、其の傍近の「チヤンデイ、メンヅト」(Boro-budur-chandi-mendut)の寺院の遺墟を尋ねると必ずや、西暦紀元第八世紀から、第九世紀頃に亘りて、建設せられた此等の寺院には、密教の佛像多くあるを發見せらるゝことと思ふ、此等の寺院が、僻地だから、わざ/\往くは、いやなら、せめて、バダヴィアの博物舘でも、一見せらるゝがよい、唐代に密教が流布した時代には、此の地方にも、密教が盛であつたことと思はるゝに相違ない、して見ると、唐代の密教は、畢竟、印度から起つて、東亞一帶の地に澎湃として漲り來た波浪の餘波に相違ない、印度にては、密教の起原は、悠古の時代にある、必ずしも、龍樹菩薩を待つて起つたものでない、必ずしも、龍智阿闍梨を待つて盛になつたでもない、もし密教にして、如來内證の眞理であり、機根の最も熟したるもののみに傳ふべき教ならば、古代印度の諸宗教は、大抵密教である、「ウパニシヤツド」文學は宗義通り解釋すれば、師資相對して、親しく授受すべきものと云ふにあるも、古來印度の學者は、これを秘密教の義に解して居る、もし又密教にして、増益、息災、呪咀禁厭の法を含み、醫療星占の學を兼有する宗教とすれば、四吠陀中の阿闥婆吠陀は、其の呪文、其の儀軌、其の綱要、其の一切の附屬文學は、即ち、これに相當する、もし又密教にして呪文、其のものに力があり、功徳がありてこれを唱ふることによりて、拔苦與樂の力あると云ふなら、吠陀や、「プラーナ」の文學中にも、これに相當する部分は、甚だ多い、要するに、密教的思想は、人類に普遍なる要求であつて、世界孰れの邦域でも、人間の居住する所なら、孰れの時代、孰れの階級を問はず其の存在を見、又存在の理由もある次第で、たゞ、印度では、古代から、これに關する文學が、最も豊富であつて、今日も比較的多く傳はつて居るから、印度ばかりが、密教の本塲の如く見えるが、世界各國、程度の多少こそあれ、密教的思想又は形式の存在せぬ所はない、されば、印度に於ける密教の發生は、其の根本に遡りて時代を定むることが出來ぬ、吠陀の文學の成立した時代は、或は、今後判然明白になることが出來るにしても、其の文學の根本たる思想の發生は、决して、文學成立の時代と同時代ではないから、密教の文學が出來る以前に、密教的思想なり、密教的信仰なりが出來た時代は、たゞ悠古の時代にあつたと云ふことが出來るだけで、今より幾千年前であつたか、何人も、これを定むることは不可能である、阿闥婆アタルバ吠陀の成立は、梨倶リグ吠陀の成立に比すれば、其の年代は、後代にあるべきことは、言語發達の上から推定することは、出來るが、同時に阿闥婆アタルバ吠陀の中に現はれた或る思想、習慣、信仰は、梨倶リグ吠陀の中に現はれたものに比すれば、一層上代にあつたと云ふ確證も出すことが出來る、要するに、密教的信仰の根本は、其の年代を定むることの不可能なることは、何人も、承認せねばならぬ。
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