一 自己を制し、他人をまもり益する慈悲心は、すなわち法にかなった行いであり、この世とかの世において果報を受ける種子である。
二 行為(業)は、心の中に思うこと(思業)と心の中に思ってから表面に表されたもの(思已業)とである、といわれ、またその行為には他種類の区別がある、と最高の仙人(ブッダ)によって説かれた。
三 そのうちで、心の中に思うことという行為(思業)は、意(こころ)に関するだけのものであると伝えられている。それに対して、心の中に思ってから表面に表された行為(思已業)といわれるものは、身体に関するもの(身業)と、ことばに関するもの(意業)とである。
四 (1)ことばと、(2)【身体による】動作と、(3)無表と名づけられる【欲望、汚れから】未だ離れていないことと、(4)他の無表といわれる【欲望、汚れから】離れていることと、
五 また(5)【善い果報の】享受をもたらす功徳(善行)と、(6)同様に【悪い報いの享受をもたらす】悪徳(悪行)と、さらに(7)心のうちに思うことと、これらが行為を表示する七つのことがらといわれる。
六 もしもその行為(業)が、果報が熟するときに至るまで、存続して住しているならば、それは常住であるということになる。またもしも行為(業)が滅びてしまったならば、すでに滅びおわったものが、どうして果報を生じ得るであろうか。
七 芽に始まる【植物の】連続が種子から現れ出て、それからさらに果実が現れ出るのであれば、その連続は、種子が無くては、現れでない。
八 そうして種子から【一つの植物の】連続が起こり、また連続から果実が生ずる。先に種子があって、それにもとづいて果実が現れるのであるから。それ故に断絶しているのでもないし、また常住でもない。
九 その心から心の連続が現れ出て、その連続から果報が現れ出る。その連続は、心がなくては、現れ出ない。
十、 そして心から連続が生じ、その連続から果報が生じる。
先に行為(業)があって、それにもとづいて果報が生ずるのであるから、断絶でもなく、常住でもない。
十一 一〇の白く浄らかな行為の路(白業道)が、法にかなった行いを成立させる手段である。この世とかの世とにおける法にかなった行いの果報は、五つの欲業である。
十二 もしもこの分別がなされるならば、多くの大なる過失が存するであろう。それ故にこの分別はこの点に関しては可能ではない。
十三 しかるに、もろもろのブッダ、ひとりでさとりを開く人々(独覚)、教えを忠実に実践する人々(声聞)がほめたたえられ、そうしてこの場合に適合するこの見解を、わたくしは説くであろう。
十四 (行為の影響をもちつづける)輪廻の主体(不失法)は債権のようなものであり、業は負債のようなものである。その不失法は、領域(界)に関していえば四種類で、【欲界、色界、無色界、無漏界にわたっている】。また本性に関していえば、無記で、【善でもなく、悪でもない】。
十五 これは【見道の位において断滅される(見道所断)の】
断についていえば、四つの真理(四諦)を観察する段階(見道)において断ぜられるものではなくて、見道のあと、いくども反復・修習する段階(修道)において断ぜられるものである。それ故に、不失法によってもろもろの業が生ずるのである。
十六 もしも【不失法】が見道所断のものとして断ぜられるのであるならば、あるいは業が【他の人に】転移することによって断ぜられるのであるならば、業の破壊などの過失が付随して起こることになるであろう。
十七 そうして心から個人存在の連続が【起こり】、また個人存在の連続から果報の生起が有り、果報は業に基づいているから、“断でもなく”、また“常でもない”。
※法有の立場に立つ人々はこのように主張して「非常非断」という仏教の根本的立場を守ろうとしているのである。
十八 しかるにこの【不失法という】原理(ダルマ)は現在において、二種類あるすべての業の一つ一つについて一つ一つ生じる。そうして果報の熟したときにも、なお存続している。
一九 その【不失法は】果報【の享受】を超えおわってから【修道で】、あるいは死んだあとで滅びる。そのうちで煩悩のない(無漏)ものは無漏として、また煩悩のある(有漏)ものは有漏として区別を示すであろう。
二十 仏によって説かれた<業が消失しないという原理>は、空であって、しかも断絶ではなく、輪廻であってしかも常住しない。
二十一 何故に業は生じないのであるか。それは本質を持たないもの(無自性)であるからである。またそれが不生であるが故に(生じたものではないから)、滅失することはない。
二十二 もしも業がそれ自体として(自性上)存続するならば疑いもなく常住であろう。また業は作られたものではないことになるであろう。何となれば常住なるものは作られることがないからである。
二十三 もしも業が作られたものでないならば、人は自分のなさなかったことについても報いを受けることになるであろう。またその説においては、清浄な行いを実行しないでも【その果報が得られるという】欠点が付随して起こることになる。
二十四 【そうだとすると】一切の世の中の活動と矛盾することになることは、疑いない。また善をなした人と悪をなした人との区別が立てられないことになる。
二十五 もしも業は確立しているものであるから、それ自体の本体のあるものであるというならば、すでに果報が熟し【報いを受けおわった】業がさらに再び熟して【果報を受ける】ということになるであろう。
二十六 そうしてこの業は煩悩を本質としているものであり、そうしてもろもろの煩悩は本性の上では存在しない(空である)。もしそれらの煩悩が本性の上では存在しないのであるならば、どうして業が本性の上で存在するであろうか。
二十七 業ともろもろの煩悩とは、もろもろの身体の生ずるための縁であると説かれている。もしも業ともろもろの煩悩とが空であるならば、身体に関して何を説く要があろうか。
二十八 生存せる者(衆生)は無知(無明)に覆われ、妄執(渇愛)に結ばれ、束縛されている。かれは業の報いを受する者である、かれは、行為主体(業を作る者)と異なっているのでもないし、またそれと同一人なのでもない。
二十九 この業は縁から生起したものではないし、また縁から生起したのではないものでもない。それに行為主体(業を作る者)もまた存在しない。
三十 もしも業が存在せず、行為主体(業を作る者)もまた存在しないのであるならば、業から生ずる報いは、どこに存在するだろうか。
三十一 教主(ブッダ)が神通を具えているので、神通で現出された人(変化人・へんげにん)を作り出し、その作り出された変化人が、さらにまた他の変化人を作り出すように、
三十二 そのように行為主体(業を作る者)は変化のかたちをもっている。作り出されたいかなる業も、変化人によって作り出された他の変化人のようなものである。
三十三 もろもろの煩悩も、もろもろの業も、もろもろの身体も、また行為主体(業を作る者)も、果報も、すべては蜃気楼のようなかたちのものであり、陽炎や夢に似ている。
二 行為(業)は、心の中に思うこと(思業)と心の中に思ってから表面に表されたもの(思已業)とである、といわれ、またその行為には他種類の区別がある、と最高の仙人(ブッダ)によって説かれた。
三 そのうちで、心の中に思うことという行為(思業)は、意(こころ)に関するだけのものであると伝えられている。それに対して、心の中に思ってから表面に表された行為(思已業)といわれるものは、身体に関するもの(身業)と、ことばに関するもの(意業)とである。
四 (1)ことばと、(2)【身体による】動作と、(3)無表と名づけられる【欲望、汚れから】未だ離れていないことと、(4)他の無表といわれる【欲望、汚れから】離れていることと、
五 また(5)【善い果報の】享受をもたらす功徳(善行)と、(6)同様に【悪い報いの享受をもたらす】悪徳(悪行)と、さらに(7)心のうちに思うことと、これらが行為を表示する七つのことがらといわれる。
六 もしもその行為(業)が、果報が熟するときに至るまで、存続して住しているならば、それは常住であるということになる。またもしも行為(業)が滅びてしまったならば、すでに滅びおわったものが、どうして果報を生じ得るであろうか。
七 芽に始まる【植物の】連続が種子から現れ出て、それからさらに果実が現れ出るのであれば、その連続は、種子が無くては、現れでない。
八 そうして種子から【一つの植物の】連続が起こり、また連続から果実が生ずる。先に種子があって、それにもとづいて果実が現れるのであるから。それ故に断絶しているのでもないし、また常住でもない。
九 その心から心の連続が現れ出て、その連続から果報が現れ出る。その連続は、心がなくては、現れ出ない。
十、 そして心から連続が生じ、その連続から果報が生じる。
先に行為(業)があって、それにもとづいて果報が生ずるのであるから、断絶でもなく、常住でもない。
十一 一〇の白く浄らかな行為の路(白業道)が、法にかなった行いを成立させる手段である。この世とかの世とにおける法にかなった行いの果報は、五つの欲業である。
十二 もしもこの分別がなされるならば、多くの大なる過失が存するであろう。それ故にこの分別はこの点に関しては可能ではない。
十三 しかるに、もろもろのブッダ、ひとりでさとりを開く人々(独覚)、教えを忠実に実践する人々(声聞)がほめたたえられ、そうしてこの場合に適合するこの見解を、わたくしは説くであろう。
十四 (行為の影響をもちつづける)輪廻の主体(不失法)は債権のようなものであり、業は負債のようなものである。その不失法は、領域(界)に関していえば四種類で、【欲界、色界、無色界、無漏界にわたっている】。また本性に関していえば、無記で、【善でもなく、悪でもない】。
十五 これは【見道の位において断滅される(見道所断)の】
断についていえば、四つの真理(四諦)を観察する段階(見道)において断ぜられるものではなくて、見道のあと、いくども反復・修習する段階(修道)において断ぜられるものである。それ故に、不失法によってもろもろの業が生ずるのである。
十六 もしも【不失法】が見道所断のものとして断ぜられるのであるならば、あるいは業が【他の人に】転移することによって断ぜられるのであるならば、業の破壊などの過失が付随して起こることになるであろう。
十七 そうして心から個人存在の連続が【起こり】、また個人存在の連続から果報の生起が有り、果報は業に基づいているから、“断でもなく”、また“常でもない”。
※法有の立場に立つ人々はこのように主張して「非常非断」という仏教の根本的立場を守ろうとしているのである。
十八 しかるにこの【不失法という】原理(ダルマ)は現在において、二種類あるすべての業の一つ一つについて一つ一つ生じる。そうして果報の熟したときにも、なお存続している。
一九 その【不失法は】果報【の享受】を超えおわってから【修道で】、あるいは死んだあとで滅びる。そのうちで煩悩のない(無漏)ものは無漏として、また煩悩のある(有漏)ものは有漏として区別を示すであろう。
二十 仏によって説かれた<業が消失しないという原理>は、空であって、しかも断絶ではなく、輪廻であってしかも常住しない。
二十一 何故に業は生じないのであるか。それは本質を持たないもの(無自性)であるからである。またそれが不生であるが故に(生じたものではないから)、滅失することはない。
二十二 もしも業がそれ自体として(自性上)存続するならば疑いもなく常住であろう。また業は作られたものではないことになるであろう。何となれば常住なるものは作られることがないからである。
二十三 もしも業が作られたものでないならば、人は自分のなさなかったことについても報いを受けることになるであろう。またその説においては、清浄な行いを実行しないでも【その果報が得られるという】欠点が付随して起こることになる。
二十四 【そうだとすると】一切の世の中の活動と矛盾することになることは、疑いない。また善をなした人と悪をなした人との区別が立てられないことになる。
二十五 もしも業は確立しているものであるから、それ自体の本体のあるものであるというならば、すでに果報が熟し【報いを受けおわった】業がさらに再び熟して【果報を受ける】ということになるであろう。
二十六 そうしてこの業は煩悩を本質としているものであり、そうしてもろもろの煩悩は本性の上では存在しない(空である)。もしそれらの煩悩が本性の上では存在しないのであるならば、どうして業が本性の上で存在するであろうか。
二十七 業ともろもろの煩悩とは、もろもろの身体の生ずるための縁であると説かれている。もしも業ともろもろの煩悩とが空であるならば、身体に関して何を説く要があろうか。
二十八 生存せる者(衆生)は無知(無明)に覆われ、妄執(渇愛)に結ばれ、束縛されている。かれは業の報いを受する者である、かれは、行為主体(業を作る者)と異なっているのでもないし、またそれと同一人なのでもない。
二十九 この業は縁から生起したものではないし、また縁から生起したのではないものでもない。それに行為主体(業を作る者)もまた存在しない。
三十 もしも業が存在せず、行為主体(業を作る者)もまた存在しないのであるならば、業から生ずる報いは、どこに存在するだろうか。
三十一 教主(ブッダ)が神通を具えているので、神通で現出された人(変化人・へんげにん)を作り出し、その作り出された変化人が、さらにまた他の変化人を作り出すように、
三十二 そのように行為主体(業を作る者)は変化のかたちをもっている。作り出されたいかなる業も、変化人によって作り出された他の変化人のようなものである。
三十三 もろもろの煩悩も、もろもろの業も、もろもろの身体も、また行為主体(業を作る者)も、果報も、すべては蜃気楼のようなかたちのものであり、陽炎や夢に似ている。