福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

目的は「宝そのもの」

2020-06-23 | 先祖供養
目的は「宝そのもの」
 
年収何億円の人とか、資産何兆円の人とか、マスコミを賑わせますが、ともすれば私なども唖然として惨めな気持ちになりやすいのですが、よくよく考えると、資産とか収入はあくまで手段の一つで目的ではありませんでした。人生の目的は「宝そのもの」です。宝そのものとは心です。スーパーボランテアの尾崎さんなどは国民年金のみで生活し其の上に全国をボランテアで飛び回っています。
以下のような格言を思い出し心を落ち着けます。
1、「宝在心」(宝は心にあり「上杉謙信公家訓十六ケ条」注1
2、「明珠在掌」(無限の宝はすべての者の掌にあり「碧巌録」注2
3、「大いなる哉、心や天の高きは極む可からず、しかも心は天の上に出づ(栄西禅師『興禅護国論』序、注3
 
(注1、 上杉謙信公家訓十六ケ条
「宝在心。一、心に物なき時は心広く体泰なり。一、心に我儘なき時は愛敬失わず。一、心に欲なき時は義理を行う。一、心に私なき時は疑うことなし。一、心に驕りなき時は人を教う。一、心に誤りなき時は人を畏れず。一、心に邪見なき時は人を育つ。一、心に貪りなき時は人に諂うことなし。一、心に怒りなき時は言葉和らかなり。一、心に堪忍ある時は事調う。一、心に曇りなき時は心静かなり。一、心に勇ある時は悔やむことなし。一、心賤しからざる時は願い好まず。一、心に孝行ある時は忠節厚し。一、心に自慢なき時は人の善を知る。一、心に迷いなき時は人を咎めず。」)
 
(注2、碧巌録九十七則に「明珠掌にあり。
功あるものは賞す。 胡漢来らず 全く伎倆なし 。伎倆すでに無し 。波旬途を失す 。瞿曇(ぐどん) 瞿曇(ぐどん) 。我を識るや またいなや
。また云く 勘破了也」(金剛経の説く無限の宝は掌にある。 修行の功ある者には分かる。 達磨が中国に来なかったならば各自の持つ無限の宝は発見できなかっただろう。無限の宝を発見しそれを超えてしまった者には魔王波旬も手の出しようがないのだ。
釈迦よ、釈迦よ 。無限の宝を持つ私が誰かわかりますか。分るぞ見抜いた。)
 
(注3、栄西禅師『興禅護国論』序 。「大いなる哉、心(しん)や天の高きは極む可からず、しかも心は天の上に出づ。地の厚きは測る可からず、しかも心は地の下に出づ。日月の光はこゆ可からず、しかも心は、日月光明の表に出づ。大千沙界は窮むべからず、しかも心は大千沙界の外に出づ。それ太虚か、それ元気か、心は則ち太虚を包んで、元気を孕むものなり。
天地は我れを待って覆載し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生す。(栄西禅師『興禅護国論』序 )」)
 
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