江戸時代までは、お茶の名産地と言えば、京都の宇治のお茶が有名でした。
将軍が飲むお茶は、宇治のお茶と決まっており、行列をしたてて宇治から江戸へとお茶が届けられました。
茶壷 お茶壷道中
ところが、現在、お茶の生産量は静岡県が断トツの一位となっています。
これは、明治時代になって、静岡県がその温暖な気候を生かして収穫量を伸ばしたことに寄ります。
そもそも、静岡県でお茶が栽培されたのは、当時の失業対策だそうです。
お茶の花 大井川の渡し
その理由は2つあります。
一つは、江戸時代、江戸に通じる街道には、江戸防衛のため、橋が架けられず、大きな川では、運び手が旅人を肩車などをして渡していました。
しかし、明治になり、新政府は、方針を転換して橋を架けるようになり、その職を失った人々が、お茶の栽培に転職したものです。
もう一つは、徳川幕府の崩壊とともに、最後の将軍、徳川慶喜に従って静岡に向かいました。 元幕臣の仕事としてお茶の栽培が始められたというものです。
こうして、静岡県のお茶の生産量が増え、どんどん都会に送られましたが、最初は日常品としてであったのが、お中元、お歳暮などに使われ、後には香典返しの定番として、売り上げを伸ばしていきました。
そのキャッチフレーズとして、飲めばなくなるお茶は悲しみを早く忘れると言うものでした。
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